何代将軍様であったか御城普請の時、足代の丸太の高い所に黒い物を見られて「あれは鳶か」と仰有せられて其の御言葉を頂いて足代方を鳶方と呼ぶ様に成ったと聞き伝へる。

近頃鳶職と一様に称ぶが大岡様以来町奉行付き町火消しに鳶を適用せられ鳶頭取、鳶頭、鳶の者、鳶人足等、階級を分けられ其の中に世話番、道具持、他種々と有るが江戸時代、特に文化文政頃は鳶の全盛であった様だ。


士農工商の順で称へられた当時商人さんは御職人衆と呼んで工を立てられ、取分け鳶は町火消しをして居たので巾が利いた事は現在全々想像も付かない程の様で其の余韻は明治頃迄、以後町内鳶として権力も時代の移りと共に薄れては往くが栄枯盛衰の烈しい御時世に尚其の名残りを止め、私の家等は菩提所亀戸竜光寺の最古の檀家で元禄頃の先祖に始まり山二長左ヱ門の家、豊嶋町八右ヱ門の家及び寺の過去帳と綜合しても確かに十五代目に間違いは無い様で先祖と傳統の有難さが今更に身に浸る。

江戸時代の鳶は町内、店方、出入屋敷の仕事は勿論、入札だ、予算だと云ふ事無く、堅実(まとも)
な技術(うで)と工事に專念し、安いから他に頼むと云ふ店方は無論なく、出入りと成れば家族同様に扱って頂いたもので半天を頂けば釜の下の面倒迄見て下さるので宵越しの銭は持たねえなんて暮らしも出来たもので其の他今日、都の土木課でやる 道路(みち)普請から橋の架替へ、井戸替へ下水掃除迄するので鳶(仕事師)を 溝浚い(どぶさらい)いなんて悪口を云われたもんです。

従って俗に云ふ無駄飯食なんて若い者がごろごろして居られ道具持位でも厄介者の二人や三人は置けたもので、出入店の抱へ、これは町抱へ頭、店の出入り頭の他に特に目を掛けて頂く者を抱へと云って気の利いた若い者は二軒も三軒も店を持って平素の小使ひから盆暮の身始末、 文身(ほりもの)なんかも自慢で金銭を惜しまず勢いを競って彫らせたり、朝、表を掃いて打水をし暖簾を掛け台所へ行って飯を食って他所へ仕事へ行って夕方暖簾を外して掃除をするだけで手間を頂けるので三度の食事は店持ちで手間は二人分、小遣ひ祝儀等、合わせると派手な金銭も道具持若い者に至る迄使へた訳です。

今日聞いては嘘の様な話が沢山有りまして悪口に云われる溝浚いなんかも溝泥に汚れる仕事を地主様から云ひ付かれると揃ひの半天に 新素気(あらすぞっき)の 身形(みなり)で威勢好くやったそうです。

 

ですから新築の地形等に土蔵、御店や御住居の場合は特に浄い者として身形は勿論たこ(眞棒)から道具も新規に新丸太を使って 足代(あしば)等にも充分手間を掛け自慢にしたもんです。

この風習も特に急変したのは関東大震災後の区画整理で、震災前迄は旦那方の気分も違ひ私の家の普請は何年掛りだ、廊下を張るのに大工が幾日々々掛かった庭石は何所の山から運ばせ、瓦を焼くにも冬夏の暑さ寒さに当て、練り上げた土で造らせたと云った塩梅で手間と金銭と月日を余計に使ったのを御自慢なすったもんで、それが震災後はあの大工に頼むと坪幾何々々で幾日で仕上げた、否や家の請負師はそれより安くって早いなんてえのを威張る様になったんですから諸職人は骨が折れる訳です。