私も一通り其の順序を踏んで酒は十八才頃から飲んだ様で震災の有った年の十九の春、出入邸(やしき)の麻布の田中さん(天下の糸平と云った明治の豪商)へ親父の代りに御年始に行って御酒を頂き、寒い所から急に暖かい部屋で空きッ腹の故とお酒が良かった等で思い掛けなくも酔ッぱらッてお抱へ車で送って頂いたが前後不覚になった事は是から先は解からない後にも先にも此の時だけであった。

 

酒が若い時から好きになったのは仲良しの友達で芸妓屋の息子で同じ年の長谷川の喜巳ちゃんの為かも知れない。

両国橋際に芸妓屋の栄家が出したカフエーサカエでウイスキーの飲み競べをしたり霊岸島の料亭へ行ったり、鞘町の島惣等よく飲んで歩いた。

 

ある時、おでん小料理の浪花家へ行き、店の小さいお膳で飲み始めたが此のお膳の周囲に徳利が列べ切る迄飲もうとお銚子のお代りの数を重ねて、お膳の角を曲がる頃屋台店の方ののれんをこぐって親父が入って来たので「しまッた」と思ったが親父は見て見ない振りをして大急ぎで一本飲むとすーっと出て行って了ったのでホッとしたし、喜巳ちゃんも「良いお父ッあんだなァ」と感心をして其れから亦飲んで遂々喜巳ちゃんは外へ出て小便をするのに立って居られず電柱へつかまる始末なので家へ送り届け二階へ担ぎ上げ、床に寝かし付けて帰って来た事が有った。

 

私は若い時も、カフエーやバーは嫌いで自分では行った事は無かったが震災後薬研堀の銭湯の向ふ側に若松と云ふ洋食屋が出来て、ある時お湯の帰り誘われて其所へ行って一杯飲った。

その翌日お湯の帰りに何の気無しに一人で寄った。ビールを注文して待って居ると向ふの卓子に顔だけは知って居るお店者の対手をして居た女給、と云っても其の当時、銀杏返しか何かの日本髪で縞のお召の着物で糊のピンと付いた白いエプロンを掛けた女が顔を見ると私の卓子へ来て了った。

江戸前の一寸良い女だったので来たのは悪い気はしなかったが向ふの客は面白くないらしく、やがて「あちらからです」と云ってビールが十本、私の卓子へズラリと列んだ。

一本か二本なら「有難う」と云ったかも知れないが湯上りで一本飲った所なのでカチンと来て向ふへカツレツを十枚届けさせた。

一人で居る所へ十枚、皿を積重ねられて驚いた顔を尻目に「誰も飲んじゃ否けねえ」と云って十一本を一人で飲んぢゃッたが翌日は二日酔で苦しんだが若気とは云へ馬鹿な事をしたものです。

 

酒を沢山飲んだのでは浅草の八十八(やそはち)と云ふ待合へ義理が有って棟梁の福さんと屋根吉の市ちゃんと三人で遊びに行って夜中迄飲んで泊って了った。

翌朝市ちゃんは帰ったが二人で牛家の松喜へ行ったらまだ玄関のたゝきを顔見知りの下足番が洗って居る所だった。

女中を呼んで石鹸と手拭を借りて前の銭湯へ行き、戻って来ると「い一番」の下足札を貰って二階へ上がり姐ちゃん達に囲まれて飲み始めたが段々気が強くなって「今日は此の座敷は他の客は入れちゃ否けねえ」なんて言ひ出したが此の座敷は四卓有って浅草の食物屋は昼飯時晩飯時、活動バネと立混んで他の座敷は一杯なのを「もう火を落としますから」と看板になる迄一日中飲んだ事が有ったが、さういふ所へ行かなくなってからは、そんな事をして居る客を見ると「なんて馬鹿な奴だ」と思ふ様になったがお馴染になって行って居る間は姐ちゃん達に建引きが有るし面白く遊ばせて呉れるので芸妓遊びと違った味の有る物だった。

 

ある正月に筒先の新年会の帰りに山二の長左ヱ門と豊嶋町の八右衛門の三人で向島の横山町の姉さんが出して居る待合へ行って晩く迄飲んで騒いで泊った。

翌朝豊嶋町は「町内のお湯花へ顔を出して直帰って来る」と出掛けて行った。二人で朝湯へ行って来ると帳場の長火鉢に湯豆腐の鍋が架って銅壺のお湯が煮立ッて居て姉妹達は二階の掃除をして居て「ゆッくり飲んで居て下さいね」と云ふので縁起棚の下に四斗樽があって細いゴム管が付いて居てそれを背中に長火鉢に向ひ合ひ徳利が空になるとゴム管から注いでお燗をしては飲みお燗をしては飲んで夜になってから豊嶋町が来たので富士見町の待合へ行って又飲みなをしたが、此の時等は本当の樽づけなので何十本飲んだか解からない。

 

私は若い時、豊嶋町のおぢさんに「酒は猪口で二口半に飲むもんだ。茶碗酒は折助(おりすけ)か土方(どかた)のするこッた」と云われた事が頭に有って猪口でゆっくり飲むのが好きだ。

ある年代は話の通じない相手や面白くも無い女のお酌で飲むより静かな小料理屋へ芝居か江戸情緒の本を買って行って空想に其の雰囲気に浸って読み乍らチビチビ飲んだ時代もあった。

戦争時代となって酒も配給制となったので馴染みの家へ行って闇で飲まして貰ったり、一合の酒を飲むのに国民酒場で一時間も行列をして待ったり、30ccの小コップ一杯のウイスキーを大の男が掌で大切そうに受けて嘗めたり浅間しい思ひをし苦労した物です。

 

戦後は段々年の故も有って大酒はしなくなったのですが少量宛(すこしづつ)でも三度々々飲んだのが否けないらしく肝硬変を病ひ同愛病院に入院百日以上も病床に居ましたが千人に一人も助からないと云ふ難病もお蔭様で快くなり自宅で二年位療養しましたが前に腰椎で身動きが出来なく骨接の先生に来て貰った時にも一日も酒を抜かなかったが流石に此の時は断酒をしましたが其の内ビールを小壜から大壜へと量が増へた頃、今度は胃潰瘍を三回も病り昨年も三月ばかり寝ましたが漸く土居先生から合成酒を七勺位と辛うじて許可が下りたが仲々そんな事で追ッ付かないので其の度毎に女房に心配をかけますが丸橋忠彌の台詞じゃないが仲々廃められさうにも有りません。

 

昭和四四.二