(唄)四方にめぐる扇巴や文車の……」今日は幸寿太夫の浜町の自宅で月ざらい。

芳町の袋物屋古川の旦那が「梅の春」を苦しそうな声でやっと歌い終わると、お義理の拍手が一しきり。

「サア今度はお内儀さんの番です」と云われた相手は渋い好みの中年の一目で 商売屋(いろまち)のおかみ。

其の隣りに日本髪に結った細っそりとした娘らしい女、一寸辞退して居た様だが其の内師匠が「すみませんが助けて上げて下さいな」と私に声をかけられたので床へ座った。

母親の三味線で娘のタテで「落人」私はワキでおかる勘平をやった「どうも有難う御座いました。ちとお遊びに」と礼を云われたが娘は一言も口を利かなかった。

 

さらいも済んだある日、稽古に行くと是非お遊びにお出で下さいと女将さんからの言伝があったので、ブラリと行って見た。

水天宮裏の待合で中位の家らしく掛行燈に「いたこ」※と書いてあった。

「先日は失礼しました」と一口出されて何かさらってくれと云ふので一つ二つ歌って後は芝居の話か何かして帰った。

其の後礼方々手土産を持って尋ねた。此の日も清元や芝居の話がはづんだが御亭主らしい男が居て私が来た事を話が合う故か、大変喜んで、亦是非来てくれと云われ、相当長話をして居たが此の間も今日も娘が居たが皆の話を聞いて居るだけで時々うなづいて居る程度であった。

 

さうしたある日、夜晩く家へ帰って来たが母親も女中のおゑいも寝て居るので戸締りをして上がるとコツコツと戸を叩く音がするので亦戸を明けると一人の女が立って居る。

角の所に居た二人の女が「キャーッ」と声を揚げて浜町川岸の方に駆けて行く影が見へた。

立って居る女は「いたこ」のお座敷の女中で、私に手紙らしい物を渡すとこれも後を追ふ様に駆けて行って了った。角の所迄行って見る福井楼の門辺りに振り返り乍ら歩いて行く三人の後姿が見へた。

後を追うのもへんな気がしたので家へ戻って紙を開いて読んで見ると「明晩十二時過ぎに裏の木戸を開けて置くから是非来る様に。

母親達は表二階に寝て了うから」と書いて有った。

其の晩も翌日も恐い様な悪い様な気持ちで迷ったが夜になって稽古を済ませて人形町で一杯やると幾らか気も大きくなり好奇心も手伝ひ、芝居か講釈の筋を見る様な気持ちで裏の木戸へ行って見ると細目に開いて昨夜の女中が待って居て足音を忍ばせて二階の小座敷へ案内してくれ、卓の上には酒の用意がしてあった。

「奥の皆さんは中庭の向ふの表二階でお寝みですから大丈夫です」と階下を行くとやがて娘を連れて上がって来た。

「お一つ 何卒(どうぞ)」と猪口をすすめたり、お酌をしたり、話をしたり、女中が一人で取り持って居たが笑ひ顔をしたり相槌を打つ程度で、娘は相不異ず口数は少なかった。其の内いつか女中の姿が消えて了って夜も更けて行った。

 

そんな事があってから気恥かしいので暫らく行かずに居たが親達の方から電話や師匠の所へ言伝で遊びに来て呉れと誘われた。

娘から又女中に手紙を持たせて「一人では他へ出られぬから先日の様にして置くから是非逢ひたい」と云って来て、段々と足繁く逢ふ様になり遂々口も利く様になり母とは云っても義理の仲で叔母である事、其の御亭主も客の 情からなった事、自分も旦那持ちで先の旦那とは子供が出来てから別かれ、今も出入りはして居るが現在は他に旦那がある事等が段々と解かった。

 

明治時代迄浅草の吉野町で大差配の家の家付き娘で若い頃から派手好きで稽古屋通ひを若い男弟子等から騒がれ養子を迎へたが温厚な人なので何時も養父と留守番をして居た。

其の内養父とも別れて現在のところへ待合を開いたが勝気で我がまゝなので幼い時から随分苦労をしたらしく引っ込み勝ちで無口なのも其の為らしく恋愛よりも哀情に似たものを感じ逢ふ瀬が重なる毎に段々はなれ 惜(に)くくなった。

 

親達からも芝居や海水浴や買物等にも誘はれたり退屈な時には電話が掛かってお花を引きに行ったり表からも遊びに行き母親も私が気に入って居るのか相談事があると何でも話をして他の人が云ひ惜くい様な事をズケズケ言っても逆らわないので不思議がられ、だから 家内

(うち)の人達も御機嫌が悪いと電話で呼び出されて私が行くとなをって了う事も度々あった。

そうした事が段々と繁くなったので母も随分陰で心配して早く嫁を持たせ様と気をもんで居る内に棟梁の伊三さんから話が有ったのを幸ひ姉さん(梅子)の行く四ツ谷の瀬良と云ふ占ひ師に見て貰ったら辰巳の方にも来たがって居る女が居ると云ふ卦が出たのには驚きました。

両親揃った円満な家庭の長女で女学校出と云ふ母親の条件に叶ひ星も亥の八白で相性も良いと云ふので積極に話が進み、二月の大雪の日、三越で見合ひをした。

ひな人形の売出し中で 媒酌(なこうど)を頼んだ、品川夫妻も来て呉れたので帰りに人形町のかねまんでふぐを食べ、明治座で吉右ヱ門(はりまや)が「酒井の太鼓」を演って居るのを見た。

結局話が纏まり、三月十一日に久松町の菊廼屋で式をあげる事になったので早速蠣売町へ話に行き親達の前で報告をした。

 

女には前から話してあり本人も種々な事情で夫婦にはなれない事を自覚して居るのであきらめて居たのであらうが別かれるとなると涙を流して別かれた。其の内に高島屋から絹布の大きな客座布団が御祝として届けられたが家の座敷には大き過ぎるからとお袋さんに話して無地の羽織地と換へて貰った程心安くなって居た。

今でも其の羽織は残って居る。