古い話ばかり書いたので今年は明神様※の祭りも近付いたので近年感じた御話を申上げます。

毎年御祭りの時季になると新聞の投書やラヂオ等で町内寄附の不平等耳に致しますが無論祭礼の方法に付いて不満も有りますが祭りと云ふ言葉や意味が違って来た事です。

昔から馬鹿な金を掛けて騒ぐのを「御祭り騒ぎ」と云ひ済んでから、がッかりするのを「後の祭りだ」なんて申した位で、祭りと云ふと金が掛かるもんだと決まって居たんですが戦後は金儲けと云ふ方に通じて来た様で一種の売出しと云ふ意にも取れる様です。

デパート、商店街の宣伝、広告や、銀座で柳を植へれば柳祭り、又桜を植へた所では桜祭り問屋組合では其の商品の何々祭り、先年秋葉原駅の前の電気器具問屋街でテレビ祭りなんて装飾を見ましたが変るものだなと思ひました。

 

親父や老人等から聞いた明神様の御祭りは江戸の大祭りの長と言われた様に只今は報道関係が深川の八幡祭り浅草の三社祭等何所の祭りでも「江戸の三大祭と云われた」と言って居ますが 真実(ほんとう)は山王祭り神田祭り根津権現祭りと云った物で徳川将軍家代々産土神の祭りに限り将軍の代参があり有名な花車の御上覧がありましたので御用祭三大祭と言われたので清元の神田祭りの 置唱(おきうた)

にも「秦の始皇の阿房宮、其の全盛にあらねども」とある様に、因みに申し上げますが万里の長城を造られた始皇帝は阿房宮に美女三千人を集め贅沢の極みをつくした言ふ、其れ程に神田祭りは盛大であった様で明治に成りましても両国広小路「後に公園」に御旅所が出来て最初より御仮屋の仕事は鳶土屋三之丞、車家冶兵衛が請負で足代小屋仕事では名人と云われた 小藤(ことう)が腕を見せ、屋根は藁葺きで、ある年は周囲に杉の大木を立木に植へたので本所方面から両国橋を渡って来た人が一夜の内に神苑が出来たのかと驚いたとの事 参詣も夜中の二時頃まで座敷帰りの芸妓や客花柳界其の他の人で酉之市の様に賑わい、御賽銭を遠くから投げるので屋根の垂木の間提灯の中等に飛込んで居たそうです。

 

詰所には世話人総代さんが羽織袴で威儀を正して本社の神輿の守護をして居られ、組合でも警護の立番は勿論、頭連は茶屋へ寄って詰めて居りました。明神様の神輿は一の宮を大国主命、二の宮は平将門で二の宮は入母屋造りで他社には見受けられない荘厳な物で大正大震災の時には復元しましたが戦災後は奉れんそれも牛車になったので以前の様に宮入に宮鍵講、御防講に組合の者で威勢好く差した状景は見られなくなった。

御防講宮鍵講の意味も解からぬ人が多くなった様で御防講とは神社出入りの建築関係から調度品の御用を勤めて居た諸職が神社に事が起きた時、駆け付け防ぐと云ふ講で宮鍵講とは以前両国壱拾ヶ町(元柳町、新柳町、吉川町、米沢町一、二、三丁目、薬研堀町、若松町、村松町、矢ノ倉町)が本社の神輿倉の鍵を預り、祭礼の時には宮鍵講が両国から行って鍵を明けて宮出しをして御防講に渡し、それから巡行したもので巡行も七日間位掛かり両国の御旅所には少なくて三夜位御泊りになり其の間の費用は全部両国で負担をしました。
御巡行中は神社又は御旅所に在る時は御防講、巡行の氏子廻りの途中は宮鍵講の責任となりますので高張提灯の順序も御旅所では上座に建てる物です。
只今では両講共氏子、出入り等に関係無く納札会、 文身
(ほりもの)の彫勇会亦は江戸趣味の好きな人達に依って依存され僅かに其の伝統を残して居りますが平素の交際に閑と金と気合ひが伴はなければ出来ない事で段々と陰が薄れて行くのでせう。

※神田明神

写真提供 : 江戸消防記念会 高橋様