薬研掘とは堀の形が薬草を粉にする機具に似て居るからと聞いたが、其の故か町になっても医者が多いので医者町と云われた位で眼の甲野、外科で片山(他に浜町に小児科吉松)が侍医頭内科で森、朝比奈、石原、河野、其の他歯科医、産婆等女医の高田さんも夜会巻に黒の羽織が似合ふ築地明石町*の様な先生も居て、どの先生にも御厄介になったほど、私は病身でした

 

内科の悪いのを治すとおできか眼となり、それが良くなると内科、入浴も気掛かりで出来なかった。小学校三年生の時チブスで明治病院へ入院、六年頃に肺尖加多留で湯島天神下の白河小児科博士に診て貰ひ其の後、毒虫に刺されて両足にべっとりおできが出来て帝大へ行き、それで体毒が下がったのか全かり丈夫になり時々発熱等で驚かされる程度で大きい病気をしない様になった。

 

昭和二十九年組頭を辞めてから種々な不満をまぎらす為に常に酒にひたる様になり、自然運動不足と併せて肝臓を痛め昨年も黄疸気味になったので土居先生(先年亡くなられたお父さんは明治病院へ母がチブスで入院した頃インターンで、米沢町に開業されて始めての患者で以来主治医を御願ひ母が最後も診て頂いた)の御厄介丁度よし町の百尺のお内儀さんだった政千代さんが同病で久松町の池谷を紹介せられたが親父がぜんそくで診療を受けた頃の御養子さん、と云っても六十を越して居て病院の内科長を勤め肝臓が上手とか投薬頂いて良くなったが三十八年一月十一日山本病院へ入り長年悩んでいた痔の手術をやり退院後寒いのと病後療法で行火の中で一杯呑んでは寝てばかり遂に秋口に肝硬変になり亦黄疸と水気が来て土居さんの紹介で本所の同愛記念病院へ入院、丁度両国の實三旅行会で塩原往きへ許しを得て参加して帰って九月二十一日に彼岸の入りも構わず入院。

女房と米三が同伴でタクシーで行き手続きや何やかと自分でする程元気で病室は合部屋で賑やかだし二三日経つと馬鹿に大勢見舞ひに来て看護婦から苦情が出る程、見舞客にも起き直って応対し夕方には手帳へ書き入れて人数を合計し『此様に一時に来ないで快くなって退屈した頃来て呉れれば良いのに』等と云って苦痛も無く只ウトウトと眠って居るのか起きているのか解からぬ程度でしたが、此の頃はむくみで目ははれふさがり、黒黄いろく皮膚がたるんで此様になると絶対助からぬから逢わせる人が有るなら今の内だと云われて皆さんが来て下されたとは大分快くなってから聞かされ自分ではそれ程重体とは思わず、たばこも吸へば食欲も有りシーツ替へにも自分でカバーを直すとか洗顔も人手を借りず,気分も良くて話も面白く只毎日点滴を五百ccを二本、二百五十ccを一本入れるのが朝食後半日以上動けないので閉口したが女房が毎日御飯を焚いて栄養食のお菜を造へて通って呉れるが感謝もし楽しみでも有ったが留守番が居ないので家の用や家業の用と犬、小鳥、金魚の世話をしてから病院へ来て看病するのも大変な事であったと思ふ。

其の甲斐と医薬治療に専任の青年医平松先生の丹精で此の病症では十中の十人迄助からぬと云われたのが段々良くなり約三ヶ月で退院出来た事は奇跡だと云われ入院患者は二月三月は普通で半年一年と闘病して居る人が多いのには驚く。

退院はしたが寒さに向ふのと療養が大切と蒲団は敷ききりで兄さんから貰った栄養食の本で食餌療法、無論あれ程好きだった酒も停められ養生専一の御蔭と御先祖様の守護、信仰の力、医薬や医師の進歩、有縁の人の気持、女房の愛の偉大な力に依って健康を取戻した。

*鏑木清方の絵