明治三十八年三月六日生れの巳五黄、日露戦争大勝の年に誕生父は亀次郎、母はふじと云って明治十四年生れの巳、又子守りのお梅が子分のやげん堀のども国(此の人の倅一柳文次郎も子分として居たが中年、野丁場師となる。
墓は竜光寺にある)の娘で矢張り一廻り上の巳年で一家四人全部巳の年の時代が有りました。

私の家は屋号通り土を商って居ましたが只今の久松中学校の敷地に以前の千代田小学校が出来るに就いて明治の三十年の終り頃埋立ましたがそれ迄は行止まりの堀留川で河岸も低く松杭のしがらみ土止メで共同揚場になって居た故船宿の福田屋(此の家は花井お梅が峰吉を殺す晩に暇乞いに来て番傘を借りて行ったので読売新聞の号外の絵にお梅が此の傘の上から見得を切って居るのを見た事がある。

娘と云っても母親と同じ年位でおぬいさんと云ひ舟宿を廃めてから小日向水道町へ移って母親に連れて行かれた記憶がある)。廻船屋の海老屋、現在の大木唐がらし、それに私共の様な、つち砂等の営業が出来て其の他芥船糞尿船(亀清楼のお内儀さんの話で汁こぼしと呼んださうで面白いと思った)の着け場でもありました。

河岸に面した 薬研堀二十番地の角に店蔵、袖蔵の店が江戸時代から有り明治十四年神田松枝町から出た大火で両国迄延焼、父親は此の蔵前の差掛け小屋(バラック)で誕生れまして此の土蔵は大震災迄有り、鬼瓦には蔦の紋、巴瓦に”三” の印が着いて居ました。

隣りが竹屋で親父は清末ちゃんと云ひ、長男は現文学博士清水幾太郎氏、其の隣角は西洋奇術の祖、松旭斉天一宅で天一氏の死去後奥さんと祖母さんが仲好しで「おいえさん」と云ふので名前かと思って居たら関西の人故お家内さんと云ふ事が後に解りました。
息子に服部光国とも一人居た様で娘さんも二人位で昨年、故郷懐かしさか、宅の前を通り掛かり昔話に一刻を過ごしましたが七十才を出て居られると思います。

其の隣りが文栄堂、文具や小菓子等売って幼い頃文栄堂と云へず「ブンドーエイ」と云ったと笑われました。
其の隣りに「フラヘット」と云ふ商号で外人の様な親父さんは大きな人でしたが可愛がって呉れました。
それから二軒目位に横三の六兵衛の家が有って先代の婆さんが私を可愛がって砂糖湯や丈夫に強くなると佛様の御飯を佛器のままくれるのですが真鋳の香ひが未だに思い出します。

紅葉屋の石倉から金毘羅様で石の鳥居をくぐると鉄の錫杖や大きな鉄下駄が在って社殿に烏天狗の面が暗い所に目を光らせて昼でも恐いのに夜中に鉄下駄と一丈も有る鉄杖で歩くと聞いて縮上がったものです。
それから石又と云ふ大きな石屋で其の頃で電話が二本も有った。
勿論一本は特設で番号が浪花 一四八三
(いしやさん)なので売り惜しかったらしい。


通りへ曲がると象牙屋の吉田さん、大きな店で御隠居さんが細工が好きで根付けやパイプを特に造って頂きました。可愛らしい守ッ子が居て葉書でラブレターを呉れ無論お袋の手に入り親父と大笑い、私は小学校時代でラブレターを貰った始まりでせう。