江戸一番の盛り場と云れた両国だけに組合の所内(ところうち)※には広小路の掛小屋の見世物は知らず、明治の頃から大正にかけて数多くの興行物(みせもの)がありました。

久松座、喜昇座等々と名は異りましたが明治座、埋立地となって出来た中州の真砂座、義太夫席では両国橋際の新柳亭、郡代(馬喰町四)の常盤亭、講釈場では福本、色物席では立花家と二州亭、活動写真では福寶堂が経営した第七福寶館、其の他貸し席が大小沢山有ったので素人義太夫や芸事のおさらいや会が毎晩催されて賑わったものです。

此の数多い興行物も組合の者は無料と云ふよりも今日の警官席の如く明治座等でも高土間の西の一番後ろの一枡は「に組御席」と札が張って有り、頭等は何時でも入れましたが木戸銭を払うより高い物についた由、祝儀や飲食費に金が掛かったのでせう。

三階の立見等は無論出入自由、福本等でも帳場格子の様なので仕切って有って「に組御常連席」として有りました。

 

私も幼さい時から釈台の張扇の音下座の囃子が好きで木戸御免を好い事に毎晩の様に聞きに行った。立花家に三ちゃんと云ふ下足番が有名な好い声で「入らっしゃーい」と呼込みの声が新道から一丁位聞こへました。其の頃は今と違がって落語も上手な人がたっぷり聞かせ、客も行火火鉢に御茶を前に中売りの豆板やねぢん棒なんてお茶菓子を喰べ乍ら耳を傾ける実に静かな寄席気分がしました。

大看板では三代目小さん此の人は常磐津が上手だったさうで得意の「うどんや」「替り目」等の中に「梅にも春」なんかをちょっぴり聞かせ、橘家圓蔵は「お花半七」で「婆さんや小網町の半しちが」なんて所は忘れられない。「居残り佐平次」で有名な小せん此の人は大変な道楽者で梅毒の為に手足が悪くなり釈台を前に寄掛かる様にして咄したが佐平次は自分の道楽当時を落語にしたので実に軽妙でした。

顔のつるッとした林家正蔵の「品川心中」の貸本家金蔵の旨さ、色が黒くて背の高い柳枝の「饅頭こわい」で「豆マメ……が」なんて所は耳に残って居ます。名人円朝は知りませんが派違ひの談州楼燕枝云ふ陰気な人が円朝物の「安中草三」「牡丹燈篭」を続き物でやりました。

三遊亭小円朝も時には咄した様でしたが燕枝の方が頭にあります。其の頃、女は真打の看板が揚げられないのでしたが「トツチリトン」の上手な橘家橘之助、三味線も達者で此の人だけは真打でした。後に円(まどか)と云ふ噺家と夫婦になり京都の大水害で死にました。弟子に橘若と云ふのが一寸出ましたが之も噺家の内儀さんになったとか、真似ては居ましたが余り上手ではありませんです。

女では義太夫の竹本素行、何日でもヒツツメの髪で弾語りでしたがタレ義太には綾之助、レコードで売った呂昇等居た様ですが余り知りませんので素行の芸風には曳かれるものが有りました。

清元では歌子只今の歌沢寅「岡鬼太郎の二号」が娘時分でおッ母さんの糸で唄い美人であったので人気が有り剣舞の源一馬此の人も子供の頃から袂の長い着物にたすきを掛けて親父の詩吟で、後に手踊り「綱上」なんかが得意でしたが好い男で歌子とおかしいなんて話も聞きました。

女道楽では常磐津の式多津只今の「西川たつ」となって一人で俗曲でラヂオ、テレビや寄席に咲き返って居ますが娘の時はお袋の文吉の糸で式多歌式多女等で唄ったり踊ったりしました。

又博多から「博多家人形」「博次」の連中が来ました。此のずっと前、女優上がりとかで千歳米波これも余程の年令でしたが仲々の美人で洗ひ髪で薄化粧に口紅を塗って出たりしました。

此の他イカ物も仲々面白いのが居て日本太郎と云ふ髭を生やした壮士風の男で晒しの腹巻に半股引絣の着物に太い白縮緬の兵児帯で一人芝居で立廻りや、トンボを切って見せました。紅かんと云ふのが木琴、鉦、太鼓、三味線を一人で鳴らし、歌ひ、百面相では最近まで居た鶴枝此の人は衣装鬘に独創な物があり黒毛糸の襟巻で百日鬘に見せたり只今の様に其の物を使わない所に面白味があり又前座で目ずつらでお灸を据へられ、段々顔が異り、終ひに目玉が飛び出すなんてのも居まして此の他、小障子で汽車の窓風景で客と駅売りのやりとり、発車で障子紙を吹いたり、こすって笑わせたり、膝頭に饅頭笠を結わひておケシボツチのかつらに赤い子供服で江川の玉乗りの真似のうまいのも居りました。

音曲では萬橘、枝太郎(雛太郎?)、つばめ、鯉かん、声色では新ばしの太鼓持 でした桜川長寿、自動車事故で亡くなりましたが操り人形の真似もして人気があり新派の吉岡啓太郎の弟で貫一、声色おでんやから席へ出て向島の太鼓持ち、女役の声色山本ひさし等幾ら書いても際限がないので止めますが操りの結城孫三郎一座等も忘れられない一つです。