では江戸時代には何故職人、特に鳶の者が大騒ぎをされたかと云ふと、火事早い市井に唯一つの頼みとする町火消を勤めた故もあるでせうが如何に豊かな御時世でも算盤を弾いて暮らす御商人、御店様で訳も無い無駄な金銭を使ふ理由はないんで此の原因もとは講談師ぢゃありませんが話は遠く、大坂夏の陣冬の陣に始まるんです。


豊臣方敗戦に依って徳川のとなり家康公の入城(紅葉山鶴舞城、千代田城、江戸城)で一応天下も治まり江戸の繁華も日一日と深まって譜代外様を問わず各大名の屋敷も立派に、登城の行列も駕籠、乗物、御道具等凛々しく参ります。


さあここで面白く無いのが徳川旗本八万騎の連中で昨日迄は敵方、又は中立で日和り見をして居た大名達が領土、石高、地位に恵まれ、大きな顔をして居て、君の馬前に身命を賭けて徳川家の為に働いた自分達は相不異の旗本で筆頭の水野十郎左ヱ門でさへ八千石、有名な大久保彦左ヱ門ですらご意見番として権力を与へられたが依然として旗本ですから不平満々。だから事毎に大名に向かって喧嘩を吹掛ける。

ですが大名達は旗本を相手にしては結果において銀と鉛を取換ッ子する様なもんで不利益は解り切ってますから屋敷へ出入の人入れ稼業の元締、是は皆様御存知の播随院長兵衛等が有名ですが人入れ稼業と云ふのは出入りの御大名方で急に多くの御供揃い等で小者が必要な時に臨時雇ひの者を揃へるのが表向きの稼業ですが此の元締、頭株の多くは大坂方の残党又は徳川に恨みを持つ武士上がりで折が有らばと其の時を待ちます為めと忠臣二君には仕えずと町人に身を落しても腕ッ節も度胸も強いので自然是等に各大名が金銭を貢ぎ、乾分こぶん人足等を養成させて、町奴と称し、旗本連の白柄組等と盛り場等で喧嘩出入りに花を咲かせたのです。
後ろだての大名の金力と旗本に対する恨みの腕力、金と腕の力に流石の八万騎も悩まされた事でせう。