乗物とは云へないかも知れぬが矢張り浅草のルナパークに汽車活動があった。今の帝国館の隣り松竹演芸場や松竹座等が無く通り抜ける様になって居て岩を積んで大滝が落ち池の流れに橋が架り、庭になって居た。

其の前にステンショ(ステーション)を想わせる建物出札口、改札口、切符売り、切符切り、切符に至る迄実感の湧く様な凝り方で先づ東海道線何時何分発車なんて札も掛かって居る。

切符を買ひ、切って貰って三等客車を半分にした様な物だがステップから室内に入る天井、網棚、ガラス窓、実物そっくり。只座席は皆前向きだ。時間が亦満員になるとチリーンチリーンと鐘を鳴らし、ピリピリッと呼子笛を吹く。其の頃は本物もそうだった。

電気が消えると客車がガタガタ動き出すと(上下にだけ)正面がスクリーンになって居て画面の風景が後へ飛んで行く。一寸汽車に乗って居る様な気分になるから妙だ。

確か国府津辺で一巻の終りだと想ふ。後を見たい客は亦切符を買う。仲々に汽車の旅等出来ない頃だから結構珍しがられた。

 

舟は一銭蒸気が始まりだらう。最も一銭では無かったが、浅草へ行く時、亦伯母が向島州崎町に居た頃、吾妻橋で乗り継ぎをして行く。両国発着所の株は運送屋の海老屋、現在の大木唐がらし店が持って居た。海老屋さんは元柳橋際に在って大震災の時に弓張提灯に表は海老屋、裏に元柳ばしと書いて有るのを覚へて居る。元柳ばしを名乗った最後では無いかしら。

切符を買って台船で待って居る新大橋の方から波を蹴立って蒸気が来る。近付くと煽りで台船が揺れる所へ船員が木雪駄の音をさせ乍ら飛び移ると持って居る太い綱を柱に巻付けるとギギーッと船が止る。台船の前に以前は巻藁が下がって居たが何日の頃か自動車の古タイヤに替った。柱には永年の綱の摺れ跡が凹んで光って居る。とインバネスに山高帽に鞄を持った人がヒョイと飛び乗る。客の乗降りが済むと発船。先刻のインバネスが袖を肩に掛け乍ら「エー毎度船内御喧しう」と云ひ乍ら鞄からポンチ絵の本を一冊宛順に能書きタラダラ。客が買ふとも云わないのに途中で「ハイ只今、只今」と云ふのが可笑しかった。

 

船は大好きで浅草橋の向ふ河岸に船宿が四五軒、川長西川屋等が有り其の中で西川屋に直ちゃんと云ふ息子が居て色男で気っ附の好い男で、女の子に随分騒がれたが三道楽揃って若い時は愚連て居たが戦後天ぷら屋等兼業し早世した。

私はこの西川屋で貸し舟を借りたがボートは嫌いで荷足を専ら好んで代地河岸の料理屋待合の賑わいや月夜の蔵前や浜町河岸の景色を楽しんだ。

西川屋の親父が大阪の淀屋の煙草入れの角型のを持って居て若い時から五十年近く使って網打ちの時に海へも何度か落とした事も有るとか。彼の朱漆が手摺れて黒み掛かり角の大型の○は枕替りになるとか。

私は若い時から其の様な物が目に着いて二十幾才の時か手に入れ、空襲当時も巻煙草が配給制度であったので夜詰めの時等、組合当時から警防団に至る迄又仕事の時等に愛用して持ち良くなったが真鋳の、「だ六」の煙管と共に戦災で焼いたが趣味で集めた幾個かの高価の物より今でも愛着が残って居る。

 

話が横に外れたが父親も舟が泳げないのに好きで祖父の年回忌に亀戸の寺から、まだ橋本(有名な料理屋)の有った柳島を墨田川へ中州の伯母の家で行った法要宴の席迄伝馬船で行ったり組合の花見には大伝馬の船首を花車の様に飾り神田囃子に木遣りで浜町河岸から向島、荒川へ、船中で階子乗りをやって花見客を喜ばせたりする催しの時は先だちになって準備に駆け廻ったり、震災後の新築祝いには子分や出方を大荷足のモーターで酒肴を積み込んで荒川の御花見をさせたりした。

私が乗った大きい船は大島行きの東京湾汽船の遊覧船葵丸で姉さん(梅子)達と珍談も有るが後日にゆづるとして未だ特急や一等寝台車へ乗った事も無いし来年東京オリンピックの頃夢の超特急で大阪迄三時間で行けるのを楽しみに、飛行機旅行の希望と共に此の筆を休む。