私は乳母車に乗らなかったらしい。

肩車か人力車が始めでは無いかと思ふ。花街だけに宿車は米沢町にむら亀、吉川町に秋初、其の後に越常、やなぎ、代地にも随分あった。

辻車も河岸の通運会社の前、いろはの角等に何時も五六台は居た。

親父は米沢町の角に三チャン(画家神保朋世の父)の辻車に乗ったが決して町内、店の前は乗り打ちをしない。

帰りも川岸で降りて帰って来た。私もお袋と谷中へ寺参りに行く時、四五才位であったか上野の三橋から俥の蹴込に乗るとたん、

女乞食に「お坊っちゃん何所へ」と声を掛けられ若かった母親は真っ赤になった事を憶えて居る。

両国辺りに何時も来る乞食で良く恵んでやったらしい。人車には只一回、柴又帝釈天に行く時乗った。

軽便鉄道の客車だけを人間が押すのだ。

十人位か乗れぬと思って居るがそれでも昇りへ行くと何人か降りて押してやったりした。帰りに名物の、うば貝の煮たのを串に差してクチャクチャ食べ乍ら青田を窓の外に見て終点迄食べ切れなかった。

軽便鉄道は親父が信仰した石橋山の真田(さなだ)様へ行くのに国府津で汽車を乗り換へて海岸沿ひにガタゴト煙を車内に吹込み乍ら走った。

勿論丹那トンネル等無い頃で熱海湯河原にも是で行くのだ。一日に何回も出ないらしく窓からのぞいて居ると木や竹の枝で顔を撫でられる位だ。

其の後は十和田湖へ行った時、三本木、焼山、古間木の何所かで乗ったが今は無いだらう。

駕籠は大山阿夫利神社で二回位乗ったが「駕籠に乗る人かつぐ人」と云ふけれど楽な物では無い。馬は大好きであるが本統に乗ったことは無い。

西部活動写真(映画ではない)エデーポロー、Sハート盛んなサイレント時代カーボーイの帽子を吉川町の角の高橋屋と云ふ唐物屋で買って貰い、道了尊の講中でお袋と行った時、関本で馬子が「馬やんべえか」と云ふので乗せて貰ったのは好いが歩行者連は本道を登るが馬は途中からヒョイと抜け道へ曲がられたので一人ぼっちになり半べそ弱虫のカーボーイだと笑われた。

十歳位であったか。戦後伊香保から榛名湖へ第一区※の連中、四五人で乗って私の馬はおとなしいと馬子が手綱を放しても自然に登る。

他の連中は恐がって鞍にしがみつく形は三人旅を想い出した。然かし乗ったと云ふより乗っけられたと云ふ方が相応しい様だ。

小学校時代今の金毘羅様辺りに宮鍵講の馬具常さんが晩年、老人(としより)商売に子供用の自転車、鉄輪の自転車を時間貸しした。

一時間一銭位と思ふ。

此の時分は高いオモチャ等買って貰へない子供が多いので相当流行った。

自分で動かす物の乗り始めで有る。

自転車は震災後からだがロードレーサーを愛用、戦後も実用車は好まない。

五十五才にバイクを買ったが安全運転するから反対車じゃないが花を持たせるので他の自転車がどんどん追い抜いて行く。

上野の博覧会、其の後、浅草にも出来たが回覧車、今でも遊園地等で見られるが輪の大きさはもっと大きかった様で上へ廻ると可成り遠く迄見えた。

木馬館も大好きで今の様に摺り切れたレコードをスピーカーでガーガーやるのでは無く四五人のバンドが廻る円台の真中で「美わしき風景」のジンタを聞き乍ら自分の木馬が両親が待って居る前へ来ると得意顔で手を振ったりした。