ある晩、浜町河岸でばったり逢って誘われるままに分和泉に行った。小ぢんまり、きちんとした部屋の長火鉢の向ふへ座った。

前の家はやげん堀で床屋をしていて居た善さん夫婦がきち子が自前になって持った家に居て(おきよちゃんは三ッ口なので堅気で居たが気立ての良い娘だった)出入して居るので話がはづんだ。

二三回遊びに行って居る内御飯を食べに行かないかと誘はれて日と時間を打ち合せた。

 

最早や其の頃は冬外套を着る頃で家を旨くつくろって結城の対の着物に献上の角帯で塗り革の鼻緒の下駄をはいて分和泉に行き、二人で自動車で浅草の観音裏の小料理屋へ連れて行かれた。気の利いた小座敷が有って食べ物が美味しく普請は好くないが落ち着いた家である。

 

私は酒を呑むには物を食べない方だが栗のふくませを誂へたのは我乍ら可笑かった。二三品肴を頼んで呑み始めたが両方いける口なので可成り徳利を空にして表へ出た。

ほてった顔に外の冷たい風が好い気持ちで少し歩いてタクシーを拾ったが運転手に「何方へ」と聞かれて何所へ行くのでも無くお互いにだまって乗ったのだが女が「水神へ*」と云ったので何故かほっとした。

暗い言問橋を渡って隅田川の夜風が窓から心地好く酒の酔ひと上気した頬に冷たい。

水神へ着いて、車を降り、少し歩いて八百松の門から玄関へ。女が手を叩くと女中が出て来て篭提灯に灯を入れて飛石伝いに植込みと秋草の茂る中を離れ座敷に案内をされた。お銚子が乙なお通しと一緒に運ばれ「お支度が出来て居ります」と女中が引下ると燃へる様な艶っぽい夜具の色が目に染みて露草に往く秋を慕ふ虫の声と共に夜は更けて帯の解ける音、やがて枕行燈の火が消へた。

 

それから段々と着物を更へては出掛ける事が多くなったのでおたかも薄々感じたらしい。ある日、分和泉へ行ったら、お座敷から戻ったばかりで家に居た。

多分時間の打合せがして有ったのかも知れない。と座るか座らぬに内に玄関に訪れる声がして、おたからしいので流石に和子ちゃんも慌てて土間に脱いであった私の下駄を渡して二階へ行けと云ふので隠れると手綱染めの赤い蒲団が敷いてあったので其の中へもぐり込んでしまった。

階下では女同志の争う声、其の内荒々しい足音と共に階子段を駆上がりおたかの怒声と共に、活け花やお膳を蹴飛ばし電話器を叩き付ける始末に此所に居ては近所にも面倒と飛出して家に帰って寝て了ったがそれからは益々家に居ても面白くないので分和泉に寝泊まりする様になったが段々戦争が激しくなり花柳界も大びらで商売が出来無くなり宴会も少なくお座敷も減って其の内見番で、芸者が挺身隊として薬包みをする様になり、鳶職も「労務報国会員」として動員される様になって来た。

其の間「私が引き取りますよ」と云った手前、随分苦労もしてお互ひに金の入る所が無いのだから辛かったと思ふ。

其の内、生憎く風邪をひいて四十度位熱が出たが医者を呼ぶ事が出来ず(知られたくないから)汗を取るので寝巻きを取り寄せようと思ったが寄越さないので女の寝巻きを皆ぬらして了った。

お袋が心配するので俥で家へ帰ったが治ったら又女の方へ行って暮らしたが二筋道の阿久津の様な気がした。


正月兄さんから電話で向嶋で店の新年会をして居るから二人で来いと云って来た。芸妓が十人位来て、宴たけなわであったが一瞬しーんとしておされた様で用意して居た新しい一円札を赤い紙入れからお年玉に一枚やって天晴れ、柳ばしの姐さんぶりを示し、土地柄の相違を 判然(はっき)り見せられた様な気がした。粋に見せる為肥 太(ふと)る事を嫌ひ、パン食にしたり、やせ薬のメーグルを服んだり、此の寒さにも下着を着ず、素肌に出の支度をするが、つぶしに黒の短い羽織で水神の玄関で手を叩いて居る後ろ姿が目に浮かぶ。


*水天宮の辺り。当時は今で言うラブホテル街(こう書くと全く情緒がないですね)だったのでしょうか