空襲が段々苛烈になって二月二十五日の大雪の日横山町迄焼けて来て動員に、警防に忙しくなり、お袋の事も気に掛かり家へ帰ったが一人きりで居る女の事を思ふと可愛想で防空壕を縁の下に掘ったが押入れに待避所をこしらへてやり警報下でも、スタンド電気を点けて居られる様にして所持品、持出し品の準備もして毎日見廻ってやった。一見、華やか相な此の女は真実の身寄り頼りの無い淋しい女である事を知った私は浮いた気持ちばかりで無く、頼られる手をしっかりと握って居てやらなくてはと思った

 

三月九日夜来の大暴風に突如大空襲。警防団に勤務中「出動ッ」と団員と手曳きポンプを「やげん堀」の角迄出したが八方焼夷弾の燃へる火はさながら狐火の如く矢ノ倉方面はやゝ暗かったが柳ばし通りは両側火の海、我を忘れて女の家へ駆けつけると縄ぼうきで火を消して居るので急いで身支度をさせ、トランクを持ち出し、尚盛んになった火の中を女を抱く様にして大通りの真中の貯水池の側まで連れ出し、家の方を見ると恐ろしい火勢に、「馬喰町方面は前の空襲で焼け野原だから向ふへ行く様に」云ひ付け家へ戻ったが間も無く焼けて了まひ、少しの間学校や伝馬町に居たが川越*に移っても気掛かりでならない。

 

女の家の焼跡に来て見るとたんすの焼け残りの板に消炭でおつねの知合ひの神楽坂へ避難して居ると解かり、逢ふ事が出来たが居辛いと云ふので二人で居所を探がして歩いたが仲々見当たらず、疲れて夕方飯田橋の駅で別かれる時ヂーッとレールを見つめて居る姿を見て川越に帰る時は後ろ髪を引かれる思いであった。小舟町の世話で田所町の家へ腰を落付かせる事が出来たが遂々おたかが爆発して荷物を纏めて出て往ったのでお袋に了解して貰ひ連れて行ったが小川さんに話をするには困った。終戦になり古巣へ戻り晴れて夫婦に。鳶の女房としての第一歩が始まったが芸妓と鳶の者の色話も永くなったが大切なお袋を安らかな顔で見送られた事も組頭を内助の功に依って無事に勤められた事、病中看護に努力した事、「酒の相手に喧嘩の相手、苦労しとげて茶の相手」を生地でいって居る様で多いに満足して居る。

昭三八、十、記


戦争の末期、三右衛門さんの一家は川越に疎開していたそうです。