夏も過ぎて九月も末今日はお不動様の縁日だ。髪結い新三のせりふに「薬研堀か西河岸のご縁日じゃァあるめへし」と云ふ様に盛んであったが子供の頃から御縁日は大好きで大震災の前の年頃迄、縁日屋が店仕舞する迄ぶらついたもので其の頃から思ふと大分淋しくなったがそれでも通りの両側は種々な昔なつかしい店がぎっちり出て居て植木屋等は千代田小学校の通りから柳ばし通りへ折曲がって列んで居たがカンテラもアセチリンランプの香ひも無く臨時燈の電球が明るく光って居た。

 

家に居てもお袋とおたかの折合が悪いので空気が重いから、お詣りに出掛け鼈甲飴や、いりたて豆、金魚釣りの店を見乍ら太田牛乳の角迄来ると植木屋の店に懸崖の菊の鉢が綺麗に飾ってあった。其の店先に粋な芸妓が浴衣姿でしゃがんで居た。

和子ちゃん*だ。前の善床の娘のおきよちゃんが一緒だが植木屋の吹っかけに欲しいが値切れないらしい。和泉家に仕込みで来た頃、お尻の小さいのが印象で 半玉(おしゃく)に出た頃、岡惚れして居る等***と聞いて居たが酔っぱらひ振りとお侠(きやんな事と粋な好みの芸妓っぷりに長唄も、立て唄ひとなり、和子ちゃんの愛称で売っ妓の一人だ。

婦系図の三世相じゃないが欲しいものなら買ってやらうと手頃なのを一鉢買ってやって近くの分和泉の家迄、持って行ってやった。自前****になって最早数年、米沢町から代地、代地から今の所へ越して来たのだ。

 

昔好きだったとか知って居るし、私も其の芸妓風が大好きで見番で箱屋同志が話で栄さんが柳ばしで芸妓らしいのは明治時代は花井お梅、大正ごろは三勝さん(親父と浮気をした事もある)今ぢや和子さんだらうと云っているのを聞いて胸をおどらせたものだったが其の頃は忙しくておつねでお座敷を掛けても一寸宴会から脱けて来る程度で直ぐ貰って往った。

 

『若らんな』(若旦那)と発音するのが此の妓特有の色っぽさがあった。其の頃は四人組の半玉とお座敷で遊んでいるのが楽しみだったので何だか大姐さんの様な気がして半玉達も居ない方が良いらしく此方も別に気にならなかった。

然し一緒に歩いて行ったら胸がはづんだ。翌日喜ずしから「分和泉さんからです」と云って物すごい大皿でつまみ物が届いたが、女房のおたかは焼いて居るのか芸妓からと聞いただけで食べないのでお袋と一杯の肴にした。

それから毎日和子ちゃんは家の前を通る様になり、おきよちゃんがきっと一緒だった

*この頃、三右衛門おじいさんは“おたかさん”という女性と結婚していました。
**和子(わこ)ちゃんは、私達が日本橋のおばあちゃんと呼んでいた女性で、本名を“さと”といいます。
さとさんは、群馬か新潟の地主の娘が旅役者と恋仲になってできた婚外子です。母親の実家は世間体を気にしたのでしょうか。幼い頃に売られてしまったといいます。さとさんはその頃の思い出をポツリと語ってくれたことがあります。村を出て夕焼けの空にカラスが鳴くのを聞き、どこに連れて行かれるかわからない心細さで胸がいっぱいになったといいます。

***さとさんが和泉という置屋の半玉(京都ならば舞妓さんでしょうか)だった頃、格子戸を磨いていると仕事に向かう鳶の集団が通りかかりました。その中にいたのが三右衛門おじいさんで、さとさんはなんて可愛らしい若い衆だろうと思ったそうです。

 ****この頃の芸者さんは、借金を返し終わると「自前の芸者」として独立する人もいたそうです。さとおばあさんもそうだったようで、文中に出てくる“分和泉”というのは、自前芸者となったさとおばあさんの屋号です。