清水幾太郎氏のこと

ひっそりと目立たないこのホームページにも、ごく稀に珍しいお客様が訪ねてくださいます。今回、ご連絡をくださったのは、関西大学教授の竹内洋先生です。

現在、清水幾太郎についての論文を執筆中で、ネット検索をしていたら当ホームページに行き当たられたとのことでした。(2010年)

実は、清水幾太郎の生家は三右衛門宅の隣だったのです。

竹内先生は、さっそく論文に書いてくださいました。(現在は公開されていません。)

http://www.chuko.co.jp/intellect/chapter02/page02.html

 

私達は、恥ずかしながら清水幾太郎のことを知りませんでした。ですが、清水の人間性に迫った竹内先生の論文に引きこまれました。

下町で生まれ育った清水幾太郎は、山の手知識人に対するコンプレックスがベースにあったことを竹内先生は指摘されています。

出自は庶民(その元を辿れば大身の旗本であったそうですが)の知識人であることが、清水幾太郎の矜持であり屈折した思いであったというのです。

論文の連載1回目で、竹内先生は清水の著書から次のような文章を引用されています。

「フリーのジャーナリストというのは、元来、文章を売って生きる人間、売文業者という身分の低い貧しい芸人なのです」。「私は、芸人という言葉の持つ悲しい響きを大切にしたいと思います」。「芸人にとって大切なのは意地だけです」。

清水幾太郎とは比べる由もありませんが、私も物書きの端くれです。これらの言葉はすとんと胸に落ちました。

それにしても、なぜ今、清水幾太郎なのでしょうか。竹内先生が論文を書かれた動機のひとつに、学術界の権威主義に対する反撥もあるようです。

竹内先生は、知の上澄みを掬うのではなく、根っこに分け入ろうとされているようです。論文の連載はこれからも続くようで楽しみです。

余談ですが、論文に掲載された清水幾太郎の写真は、面長だった三右衛門に似ています。江戸っ子の顔の一つの典型なのでしょうか。

新しい世界を開いてくださった出会いに感謝しています。

また、当ホームページの本文中で、清水幾太郎の生家の屋号を「枡屋」としていたのは、「竹屋」の誤りでした。貴重なご指摘にもお礼申し上げます。