『岩崎』と『渋沢』の間に『外科侍医片山医院』が在ったのを忘れた。清正公(せいしょうこう)様は花崗石(みかげいし)の門柱に敷石の長い奥の正面が本堂で左側が庫裏で花柳界(いろまち)等信者の参詣(おまいり)も賑やかに、石の浄行(じょうぎょう)様に縄束子(たわし)が沢山奉納されて居た。震災後御本尊は谷中警察署前の寺に安置されて居る。

瓦屋根の門に敷石の突当りが玄関の『甲野眼科医』も侍医で全国的に有名で汽車で診察に来る人等で待合室は満員で順番を取るのに早朝から待って居たが私共ではお店(たな)なので裏から入り診察券を出すと間に入れて呉れ、それで無料(ただ)だったので有難かった。

門の眞向側は横山町二丁目だが間口の広い眞暗な土間で鞴(ふいご)を押したり眞赤に焼けた鉄を三人掛りで槌でトンテンカンと鍛えて薪割を造る鍛冶屋があったとは想像も付かないだらう。鉄材問屋『京菊佐野』の大きな倉庫の前には馬力車や荷車に鉄板や亜鉛(とたん)板等を積下しをして居た。半襟、手柄等の問屋の娘が現在(いま)浅草仲見世左側角で小売店を営って居る。

『石原春斉』と云ふ古風な名の内科の医者があった。角が洋傘(こうもり)の骨の問屋『ホネチウ』の旦那は肥(ふと)った立派な人で商人なのに鼻(び)下に髭を生やして居た。『煙草屋白石』『手沢商店』等があり雑貨問屋久保田商店は大きな土地に店、庭、住屋、家作等があって良いお店(たな)で兼吉が抱へであり、娘のいく子さんは同級生であった。『岡本宏弁護士』が角で新道を曲がると帯専門の仕立屋『帯国』で両国の若睦(わかむつみ)の交際(つきあい)等をして居た。家(うち)の子分徳次郎の女房が『おたけ』と云ふ髪結で芸妓や堅気の良いお得意があって梳手(すきて)(弟子)も相当居た。新道は路次になって『江森』や『岩崎』の方へ抜けられた。左角が『関本氷店』で並びが『入山炭鉱株式会社』の明治風の西洋館だが以前は『寿が野』と云ふ鳥料理屋で庭の池が薬研堀最後の名残とか聞いた。『馬具常』は宮鍵講や納札会等の交際(つきあい)をして居たが老人(としより)になってから子供用の自転車や足で漕ぐ豆自動車等を時間貸して居た。

隣は平屋の古い家があって夫婦者が餅菓子屋を開業して良く働き、お内儀さんは冬でもメリケン粉袋を解いたので造った襦袢や腰巻で稼業に精を出し、板の上へ大福、饅頭等列べて売って居たが間も無く震災、震災後『千代谷菓子店』と成功した。新通の様な路次の左側、水鎌の裏側の所に横山町三丁目の鳶頭(かしら)六兵衛の後家が居て病死をして納棺の前に可愛がって居た猫が傍を離れず背中を丸くしてフーッと息を吹いたら死骸が動いたので急いで刃物を乗せたとか聞いて恐かった。亡骸に刃物を乗せないと魔が差すと云ふ事は現在(いま)でも伝はって居る。薬研堀町を一巡したが多少思違いや抜けて居る事、敬称等を略した事等お許し頂きお気付きの点があったら補足を願う。

 

幼ない時に歩るいた近所、学校へ行く様になってからの町、仕事に出る様になってからの町内、大震災後の異り方、区劃整理で一変した町、戦災で亦々建物も住む人も大異りに異ったので冷静に考へても錯覚を起す。

薬研堀で書いて置きたいのは御縁日だ。当時は縁日と云わず御の字を付けた。現在(いま)は縁日屋も露天商も混合して居るが出る店も売る店も品物も全然違ふ。大きな紅渋傘を立てた『葡萄餅屋』、丸い金網篭を火の上でぐる回して居る『煎り(たて)豆屋』、種々(いろいろ)な顔が折っても切っても出て来る『金太郎飴』の親父は丁髷を結って居た。飴を延ばして首に掛けた麻糸で切る飴屋は顔役らしく此の人が店の地割をして不動様の入口が自分の常店だった。綿飴屋も電動で無く板を踏んで回して居た。種々(いろいろ)な型へ流した鼈甲飴は眞中に入れた杏子の所を舐めるのが楽しみだった。

(新粉細工屋も出たが胃腸の弱い私はお腹をこわすので買って…以下記述無し)飴細工屋も器用に様々な物を造るが息を吹き込んで薄く脹らした瓢箪の口から蜜を吸うのも美味い。どんどん焼屋は厚い鉄板でうどん粉を溶いたのを流し、乾海老や烏賊に葱、揚かす等を入れ、醤油をヂユーッと掛けたのや薄く延ばして篭や岡持を造り、豆や餡の上から蜜を掛けたの等旨い。

剃刀の紙切りは小供には難かしく仲々切れなかった。ドツコイ、ドツコイは当りが大きな金華糖の鯛等だが当りそうになると台の下で足で調節して外れになる様にしてあった。目の前で小紙を丸めて入れたのをピンセットで拾ふ当て物も絶対当たらない。五目列べ屋も素人は勝てない。竹の山吹鉄砲、針金細工や知恵の輪等も子供には魅力があった。植木屋は矢ノ倉寄りにずらりと列んで店を出し、土地柄か盆栽等相当高価な物が有った。

照明も現在の様にコードを敷いて電灯では無く以前は行燈、提灯に蝋燭、石油ランプからアセチレン瓦斯になり翌朝カーバイトの白い粉が捨ててあった。植木屋等は大抵魚油のカンテラで黒い油煙がゆらゆら立って居たが明る過ぎる電灯より情緒があった。端れの薄暗い所では飛白(かすり)の着物に小倉の袴の学生風の男が二三人ヴァイオリンを弾いて艶歌を歌ひ歌詞の本を売って居た。

耶蘇教の牧師も手風琴で賛美歌を唱い、高張提灯を点けて人を集め伝導の話をして居た。古くは妙見様、清正公様、金比良様又其境内に江戸七森の一つ茂森稲荷が祀られ、月に三四回御縁日があったが薬研堀と矢ノ倉の成田山出張所(おでばり)がある(せい)か、御不動様が一番参詣(おまいり)も出店が多かった。

夏は入谷の朝顔とか浅草のほうずき市と云ふけれど両国近くの人は皆此所へ買ひに来て糊の利いた粋な浴衣掛で吊忍(つりしのぶ)の風鈴の音をチンリンチンリンさせて歩るき、秋は懸崖(けんがい)の菊、冬は梅に福寿草の盆栽等を買って行った。子供達は昼間から宵の内、夜になると気取った若い男達、日本髪の綺麗な娘連(むすめれん)が御縁日から柳の(なび)く浜町河岸へ涼みに行くと隅田川には貸ボートや荷足(にたり)の行灯の灯りがチラチラ水面に映って居た。夜半(よなか)になると左り褄に水髪の芸者、高い木履(ぽっくり)のお酌がお座敷の帰りに、お店を(しま)った料理屋(おちゃや)、待合等の人達がお(まい)りに来るので夜中の二時頃迠賑やかで、酔った客等が来るから高価(たかい)盆栽等は(おそ)くの方が良く売れた。

七月の十二日に草市がたちお盆にお精霊(しょうろ)様に上げる真菰(まこも)麻幹(おがら)土器(かわらけ)、燈篭、蓮等の店が列び、各家々でも必ず仏壇を飾ったりお迎火を焚いた。子供達は(まわり)燈篭や線香煙火を買って貰うのを楽しみに付いて行ったものだ。