路次に小林柳吉ちゃんとおことちゃん(*)と云ふ別嬪の姉弟が居た。

(*)おことちゃんは馬喰町永広堂香水問屋の番頭と結婚した。

 路次の左り角が『土屋三之助』(*)は活花の師匠で縁日やお祭りに窓格子を外し緋毛氈を敷いて弟子の作品を献花した。 

(*)宛名がまぎらわしいので郵便がよく間違って届いた。

 唐がらし横丁の右角が水菓子屋『水鎌』で、次が大きな陶器屋(せとものや)があり焼物(せともの)好きの母は清水焼の湯呑や龍の模様(がら)の高価な茶碗等買って呉れた。店で塗物等を商ひ二階で折箱等を造る『折屋小林』は歌が好きで()い声であった。毛を吊り下げた看板の髢屋(かもじや)(*)『瀬古(せこ)』のお爺さんは白い顎鬚を長くして居るのを小さい頃「アレを切って髢に売るんだ」と冗談を云われたのを眞実(ほんとう)と思ひ、そんなに生へるものかと吃驚(びっくり)した。*江戸時代の洒落にかもじやの看板で毛()がふれて居ると云った。

横町の名になる位、有名な『(とん)がらし屋(*)中嶋』はどこに秘伝があるのか他店で眞似できない味と香りは店の前を通るだけで好い香りがした。

(*)とうがらしと云わず土地ッ子はとんがらし横町と云った。

 旦那は魚川岸から養子に来たとか聞いたが威勢の良い人で町内、商店会の顔役で取り分けお祭礼(まつり)の時等骨を折った。桜井呉服(メリンス)屋があったり誂へ専門高級肌着の店『殿村シャツ(*)』はお内儀さんは丸髷を結った(いろ)っぽい美しい人で注文品を渡す時に香水を吹いて呉れた。

(*)殿村は神田駅前に移転。

 通りから前を広く空けて『清心丹髙木』は大きな店蔵で奥が庭の広い住居(すまい)で横に家作(*)が沢山有った。 (*)家作に画家になった神保朋世の父、車夫三ちゃんが居た。

 旦那は肥満の人で単独(ひとり)で自動車に乗れない程だが一人娘はすらりとした美人で明治座の柳ばしの会に来た時、新橋、赤坂等一流の芸妓、栗島すみ子等女優達の中でも()けを取らないと思った。浅草区役所横丁のおかめじるこ(下総屋)が支店を出し、姉妹が居て丙午の姉は横山町中井帽子へ嫁に行き、妹は後に浅草へ返ってから自殺したと聞いたが繁昌した店だ。通り抜けの路次に長屋が列んで共同水道があった。右角が『東屋糸店』、左角が『古川(すだれ)屋』お内儀さんは『おしまさん』と云ふ髪結だった。その先の角が門柱に塀を(めぐ)らした『森医院』は侍医で後に前の池上油屋が移り天津甘栗の輸入をし、卸売りをした。曲がって銭湯五色湯は建物も大きく綺麗であった。此の通りは大(どぶ)が通り、(どぶ)板を渡り出入りをした。『葬儀社石井』は酒と唄が好きで交際(つきあい)も広く土地の葬式は殆ど頼まれ金持からは儲けたらうが、貧しい(うち)無料(ただ)同様に面倒を見て呉れて組合の者も随分御世話になった。『でんや』と云ふ小さな天ぷら屋、車宿があって東屋糸屋の方へ抜けられる路次があって『福岡刺繍屋』他種々の住居が列んで居た。路次の先は『江森乾物屋』の間口の広い店があって又路次(うら)があり関東国粋会長、博奕打金町一家の親分『根本治平』の住居があった。震災後、金柳組となって一子分の北沢元吉が跡目を継いだ。『ハリキン石鹸金沢』の化粧品問屋『播金(はりきん)』の店も大きく鳥安の娘さんが嫁がれた。『袋物問屋岩崎』木造三階建の立派な店を建築中震災で焼失、防火紙の不完全な時代で平屋根のアスファルトの下に鉛板を敷き詰めたのが焼跡の土中から塊となり沢山出た。

角が煉瓦造り三階建の『渋沢公證役場』で請負師が勘定日に現場で支払いをするので建築中の三階で親方や職人達で博奕をしたので久松警察から手入れをされた。『洋食屋喜笑亭』は戦災で水天宮裏へ借住居中死亡、内儀さんも先年亡くなり現在(いま)娘が養子を迎へ橘町で営って居る。