矢ノ倉に向ひ合った角が『私立大堀学校』で当時は市立小学校へ手続き其の他で入学の面倒な私生児、貰ひッ子、芸妓家の養女と云った子供が入学した。先代から先生で御子息も教鞭を取り親子三代教育に尽くしたので浜町日本橋倶楽部で表彰式が行われた。市川女寅の倅で男寅から男女蔵、左団次になった役者も此の校の出身だ。幼稚園と予習部が有り、私も両方お世話になったが後に久松町へ移転された。

名古屋料理の『大又(だいまた)』は有名で高位高官、財界の良(い)い客ばかり、お馬車やお抱人力車(かかえぐるま)が待つ居て芸妓(げいしゃ)も一流で無ければ入れず、結構なお庭が有った。 『高安歯科医』も遠くから治療に来る程名高かった。『玉水館』はスタヂオも大きく高級な写真館だったが私は其の新道で生まれ育ったので小さい頃の写真の台紙に其の名が有る。岩立花の小つまと云ふ芸妓が二号になり『田中』と云ふ表札の立派な住居に居た。河東(かとう)節をやり、芝居で助六を演ると河東節御連中寸見(ますみ)会と云って特別出演で御簾(みす)内で語った。 先の角が元報知新聞社が有った。

曲ると家(うち)の前が巾も深さも五六尺の大溝(おおどぶ)で熊井糸屋の他何軒かあって角が『つくだ煮屋』で唐(とん)がらし横丁に入ると『池上油屋』で後に前角の『森医院』の跡へ移り甘栗の輸入を営った。煮豆屋があって確か此の跡へ市川猿之助の弟笑猿が沢潟屋(おもだかや)と云ふ紙屋を出した。馬渕と云ふ洋品屋もあった。此の辺りに新道があり借家が列(なら)んで鳶頭(かしら)の久ちゃんが居た。三味線の『鶴屋』の店で大きな真鋳の火鉢に鏝(こて)が差込んであり、湯が(たぎ)って居て高音(たかね)で調子を合せたり、皮を張ったりして居た。旅館宮城館は大きな建物で玄関も広かった。主人は仙台の人とか、町会長も努められ、踊りが好きだった。蝙蝠傘の高橋屋に美(い)い娘はあちゃんが居て両国の連中が造(こしら)へた娘番付に角の宮吉(みやきち)の娘や弁松の娘と共に三役級であった。 高橋屋の隣は下駄屋の大鹿屋。『鳥平』のお内儀(かみ)さんは裾を捲(ま)くり高下駄を履いて働いて居た。宮吉(みやきち)の火事の後『関口玩具店』になり親達にせがんで買って貰った。

土蔵住居(くらずまい)の家(うち)へ浜町花屋敷に居た『清元喜久太夫』が越して来た。妻女(かみさん)は家内(やな)太夫の娘で姉妹の小やなと太鼓持ちのしん孝と一緒(ふうふ)になり、娘の亭主が『清元幸寿郎』です。『善床の富永』は土の土間で後へ倒れない藤(と)の網を張った椅子で着物に下駄履きに白衣(うわっぱり)を着て仕事をして居た。職人の亀ちゃんは永く居たが乃木神社の守衛になった。子沢山で金ちゃんは清元の三味線弾きになり、おせんちゃんは市村羽左衛門の二号だった浪花家小吉(なにわやこきち)方から芸妓に出たが両方若死にした。

路次の中の『矢ノ庫稲荷』は女神とかでお姿を見たとか人力車(くるま)から降りた女がフッと消へたとか噂を聞いて恐かったが霊験灼(あらた)かとかで参詣者があった。硝子箱を列べて太った後家さんの菓子屋が有って『薬研堀不動尊』だが詳しいことは一号に書いてある。表側の玉垣に十二支を浮彫りの額縁石、左りの正門の親柱は御影石で一丈位の角柱で突当りが本堂、右脇門の突当りが別棟の大師堂、門柱の間の玉垣の裏側に「百度石」と浅草橋見附御門内で『太平記講釈場』を開いて町講釈、辻講釈の元祖と云われた(なわせい)左衛門の記念碑が有り、大正十二年六月東京講談組合、大谷内越山(おヽやうちえつざん)師主催で祖先祭を行った。右が庭で『に組』木やり師紀念碑と明治座留場中(とめばじゅう)と云ふ燈篭があり三宝荒神等を祀った建物があり地内は御影石が敷き詰められ、御水屋と鉄鋳物の水鉢は町火消し元一番『いよはに万組』で奉納した物です。黙阿弥作の髪結い新三の台詞(せりふ)に「やげん堀か西河岸の御縁日…」とある様に御縁日は東京一と云ふ程賑やかで歳の市は廿七日廿八日ですが晦日迠あるので「だらだら市」と称ばれ、広小路から横町々々に出店が列び、最高の羽子板が飛ぶ様に売れた。隣りへ大正七八年の成金景気と売り出しの『杵屋佐吉』が立派な普請をして棟梁と鳶頭(かしら)に羽二重、諸職親方に紬、職人に総半天を出し、五色の幣串(へいごし)を上げ、木遣り、棟梁送りと盛大な上棟式を行ない、落成して八月三十一日に金庫も納めたが翌九月一日大震火災で焼失した。