若いがチョビ髭を生やし、抱人力車車(かかえぐるま)で馳廻る様な意気な金融業か株屋の住居があった。晩年新聞を賑したり、浜町に二号が花よしと云ふ待合を出した。前庭のある飯田の住居が路次の左角で積田メリヤスから次当りが郵便局だと思ふ。

『大虎(だいとら)』も大きな大工の棟梁で前記の石又(いしまた)、屋根吉(やねきち)と共に薬研堀の三親方であった。弟子も多勢居たが『よっさん』とは永く交際(つきあ)った。 何軒かあって『太田』はミルクホールで小学校へ行く前から連れて行って貰ったが厚い欅の大きなテーブルとジャムを間へ沢山塗ったフランスパン、魚の形をしたパン、バタトースト等が印象にある。店で働いていた夫人が今尚健在で活躍して居る。昔妙見様があった角が思い出せないが後に郵便局が移転(こ)して来た。理髪店(かみどこや)『三沢(みさわ)』の五郎ちゃんは何でか自殺した。皮屋の『加藤』から『貸席大杉亭』で以前(まへ)は『大黒屋』と云ふ大きなうなぎ屋だったが後に『メリヤス組合事務所』となり、角が『よし田洋食店』で倅が学校友達、現在(いま)上野あめや横丁で『とんかつ吉田』を経営して居る。 曲って荒物屋等があったが二三軒一緒にして泌尿器科の上手な『佐藤東一郎医院』が三階建で開業した。 『山徳』は唐桟(とうざん)、結城(ゆうき)等の洗張りでは東京一で生地の艶を出さず消さない、石の上で叩く技術は最高、唐桟の研究家で逸品の小切れ地を縫合せた着物を博物館へ寄贈した。唐桟は字の通り唐(もろこし)で織った衣料で古渡(こわた)り、中渡(なかわた)り、新唐(しんとう)等有るが現在(いま)は織られないので貴重品で現在売られているのは唐桟柄と云ふだけで眞物(ほんもの)は無い。倅の市場徳太郎は終戦後写真家になり、七十六才を迎へられたが此の稿を書くに就いて種々(いろいろ)お話を伺った。 金箔師の『山口』は廃業してから裏に住み、表の家作に蒲団屋で町会の用等をした『小林忠兵衛』が居た。そばの『やぶ松』は老舗の井筒を凌ぐ程繁昌した。御影石の門柱に敷石、両側に植込みの正面が『河野医院』で明治のお医者の構へだった。貸席『車屋』は鳶頭(かしら)の権次が営(や)って居た。広い土間に茶釜等が有り講中や無尽の寄合其の他、組合でもきやりの稽古、会合等に使った。倅は大貫忠次郎と云ひ、江戸字や纏の絵、器用な人で小細工物が上手いので仲見世の助六の仕事をして本職にした。『杵屋佐吉』が女房『ます』と両国公園前の柏屋三味線屋の二階借りで所帯を持ってから引越して来た。息子の武藤忠ちゃんは痩せて居て病弱だった。『渡辺医院』の光庵先生は着物に縫紋の羽織、下駄履きで往診して居た。祖父(おぢいさん)もお世話になり亡くなった時の診断書も書いて頂いた。

次が大きな長屋で階下(した)の眞中が通り抜けられ、大きな井戸が有った。右が西洋洗濯屋『吉永』で当時此の商売は珍しかった。左角は油と荒物の山口で、ランプの家も有ったので石油やお燈明の灯油、揚物の油等、特種の柄杓(ひしゃく)(銅製)で量り売りをして居た。『高田医院』は女医で清方(きよかた)の築地明石町の絵の様に夜会巻に結って弟子の守屋さんは産婆になったので現在(いま)の様に産院に行く時代で無いので御両名に取上げられた両国ッ子は多勢居るだらう。後に『魚拾』になった所は錻力屋(ぶりきや)で梅チャンと云ふ息子が居て親方が死んで娘のお稲ちゃんは前の芳梅亭(ほうばいてい)の店を手伝い、人形町末広亭角の北上電気商会に嫁に行き、倅が映画俳優北上弥太郎である。隣が豆腐屋で倅は家を出て満州へ行ったとかだが。是で十九番地は終りとなる。