江戸時代の絵図を見ると薬研堀と云ふ町は無く『米沢町やげん堀』と有り草根薬を造る薬研の形に似て横山町辺迠延びて居たが江戸末期に段々埋立てられ明治には薬研堀町となって其の名残りが隅田川への落口が堀割の様になり、米沢町三丁目側が共同揚場になって私共では鳶職と土砂の店を持ち、薬研堀町二十一番地と私の兵隊検査の証書に書いてある。祖父(おぢいさん)の代迠は大伝馬船を三艘荷車も数台、船頭、車力、店の者に、鳶の若者等大勢居て、前の二十番地の東南角に土蔵、住居蔵があって屋根瓦に鬼蔦の定紋、角三の家印が付いて大正十二年の関東大震災迠ありましたが千代田小学校が移転して来る為、河を埋立てられ土屋を廃業したり、財政の都合もあって明治三十年代に手放したので(山田と云ふ住居になった)、私が生れたのは写真業玉水館裏の借家でした。元の店の隣が竹商(たけや)清水末吉で父と同年(おないどし)に生まれ、明治十四年一月の神田松枝町から出た大火で焼け出された後なので乳の出が悪く祖母(おばあさん)は豊富だった故、上げたので『お前と末ちゃんは乳兄弟だよ』と云はれたさうです。此の人の倅が学習院大学教授文学博士で著書も沢山あり、ラヂオ、テレビ等でお馴染みの清水幾太郎です。隣の角が明治時代に洋行したり国技館で興行したりして西洋奇術で有名な松旭斉天一(しょうちょくさいてんいち)住居(すまい)です。立派な(うち)で奥さんと祖母さんと仲が良く『おいえさん、おいえさん』と呼んで居たので名前かと思ったらお内儀(かみ)さんの事と後に解かった。初代天勝(てんかつ)は養女であり、弟子であり、妾でもあったらしい。次が『文栄堂山本文具店』で千代田小学校の御用達で駄菓子や安いオモチャも売って主人は町内の書記等もやって居た。『フラヘット』と云ふ当時珍しい二世のぢいさんが貿易の店を持って居た。『鈴木蒲団屋』(孫が鈴木金次郎と云ふ)の店先でお婆さん(*)が縫物をして居る(とこ)へ蛇のおもちゃを投込んで怒られた。

*お婆さんの甥が伊豆山富貴屋旅館で働いて居る。

 

旗屋の『紅葉屋』の石倉から金比羅様の石鳥居、花崗みかげの敷石の参道、正面の拝殿の薄暗い所に古びた烏天狗面の額が掲げてあり一丈位の錫杖や二尺位の鉄下駄の奉納物があり小さいが杉の木立もあって『夜になると天狗様が下駄を履き杖を突き夜中に歩く』と驚かされ恐かった。石又は細工場鞴場さいくばふいごばの広く弟子も多勢居た。職人の家に電話が少ない頃で二本もあったが売る事の出来る方が浪花一四八三(いしやさん)なので売らないと云って居た。『君の家』と云ふ髪結、『浜二馬さん』と云ふ鳶頭かしらの倅の『大野かもじ店』、角が葉巻屋で跡へ橘町の足袋屋の倅の『中村下駄屋』、曲ると『坂本更紗屋』で夫婦共に良い人で有った。隣は『吉田象牙店』で大きな店の両側の飾窓ウインドに細工物が陳列してあり、見世では職人が多勢細工をして居り御隠居さんは可成り高齢だが仕事が好きで特殊の物を造って居た。若旦那は御養子で物静かな人で家付きのお内儀さんは痩形で早死された。上総屋呉服店の後へ『八木屋半襟店』は関西の旦那で今は息子さんが浅草新仲見世で『ゑり丹』をやって居る。次が新井たばこやで角が土蔵くら造りの白牡丹だったが名優河原崎権十郎の未亡人が『川崎屋』と云ふ袋物屋を出し、でッぷりした人であった。今戸の住居すまい土蔵どぞうには二の膳付きの漆器等が揃って積込んであり、取りに行った金太郎と云ふ若い者が驚いて居た。若旦那は役者の様な優男やさおとこだったが後に金貸や大森へ洋食屋を出したがコックに殺され新聞を賑はした。曲って鳥料理屋があって妹娘が石鍋愛子と云って小学校友達で姉は後に新国劇の番頭をした音羽幸太郎と云ふ粋な人の女房になり、浜町へ待合を出した。しもた家の様な『三浦東京支店』があって政次郎夫妻は関西の商人だけに腰の低い方で小さいあたしの事をお坊ちゃんお坊ちゃんと云って下さると母親は恐縮して居た。下町では奥さんとか坊ちゃんなんて云ふ人は少なく江戸の小噺に下町で[坊ちゃん』と云ったら子供が『ヤア医者の子と間違へてやがら』と云ふのがある位です。魚福の跡を買って魚磯田辺が来た。骨董の鑑定めききが上手い道元どうもと事、小川元蔵が居て浜町の『山澄やまずみ』辺りからも見て貰ひに来た位で、懇親にして居たので小石川金富町の移転先ひっこしさきが罹災しないので震災で焼け出された時、御厄介になった。杵屋六繁は長唄六宝会の会長でお弟子もお屋敷方が多く、迎への人力車おかかえぐるまで稽古に行った。美人で若い時、高島田に矢絣の『道行のおかる』の様な姿で、両国の煙管屋きせるや村田の店蔵の図と共に東京百美人の一枚絵で『長坂はる』と云ふ錦絵を見た。川崎屋のむこッ角(米沢町の芳梅亭の左角)が十九番地で富屋糸店で旦那は中年から足が悪く、組紐は上手で羽織紐や時計根付紐等注文して造って貰ひ、倅の宗チャンは友達だった。袋物屋の親方は『山本』と云ふより『鉄つあんの店』で通り、お不動様へ鋳物の灯篭を奉納したが戦災で壊れた。末廣屋は(後が松葉屋)、上方呉服で度々売出しをやり、繁昌した。五條堂は高級陶器屋せとものやで後に浅草へ待合を出し、お内儀かみさんがおよねと云ふので『八十八やそはち』と云ふ屋号であった。角が『屋根吉』(*)と云ふ大きな乾物屋でお婆さんが店番をして店の者は四五人居た様だが次男の孝ちゃんが右隣へ贅沢煎餅の店(桔梗屋)を出しお使物の三円五円の缶が良く売れるので一銭、二銭と黄粉だの胡麻を売って居るお婆さんは『勿体無くて手を合はして居ます』と云ふ様な好い人です。屋号の通り「とんとん葺き」「板金工ぶりきや」が本職で此の方も良い出入り先が有り、盛大であり、先代が堅かったのか地面、家作を沢山持ち、本所三笠町は人の土地を踏まずに歩けると云はれた位で土蔵くら紙幣おさつの虫干しをして段々後へ退さが階段はしごからおっこちたと云はれた位、嘘かほんとか震災の焼跡から古銭の塊が沢山出てきた。

(*)屋根吉の後へ伊勢錦と云ふ角力が書画屋を出した。

 

 総領の市ちゃん(*)は石又の娘を嫁にしたが婚礼の晩から家へ帰らず離縁、柳橋の芸者を女房にしたが別れ、吉原の大文字楼の御職の大牧と深くなり、其の頃資産(しんしょう)も使果し引手茶屋の井筒屋が親元身受けをして夫婦になり、其の後数々の苦労をして戦後鉄関係で成功、社長となり鶴見で町会長もして柳橋に相当の邸宅(じたく)も持って小説の様な一生を添遂げた。

 (*)市ちゃんの弟の孝ちゃんは同級で函館に居る。

 

並びの『弁松』(下島*)は仕出し、弁当等で繁昌し義太夫が好きで娘の『いくチャン』も小さい時から習って日本橋から『いく代』と云って義太夫芸妓に出た。

(*)下島幸蔵は山徳の同級生。