米沢町通り、唐(とん)がらし横丁の商店で商交会、商睦会が出来て電気灯を点け、何時か鈴蘭通りと呼ばれる様になり、現今(ただいま)<の人は懐かしがって居ますが当時古い人は『新開町(しんかいまち)みたいで嫌だ』と云ひましたが事実明る過ぎ、落着きが無くなりました。野町の向ッ角が高級洋食の芳梅亭で母親が若い時分馴れない揚油の臭ひに鼻を袂で押さへて通ったさうですが何時の間にか良い匂いになったとか。階下に見た人も無い撞球(たまつき)場が有ってゲーム取りの『茶目公』と呼ばれた小僧が後年、世界選手権保持者、松山金嶺(まつやまきんれい)です。隣が銀行、と云っても土蔵店で内部(なか)は三等郵便局で見る程度、後に高級貴金属商、日廼屋となり旦那は浅草の箱丁(はこや)から成功されたとの事。

隣の壷屋の橋本は刀剣、鍔、目貫等の鑑定(めきき)が上手ださうですが店は地味でした。足袋屋の松本の親父は父の友達で囃子やお神楽が上手で子供が沢山居て、松チャンが隣の下駄屋、大美津(だいみつ)の善チャンと共に友達です。竹の皮屋の田島は後に倅が文具商(や)を始めたが家では永らく『竹の皮屋』と呼んで居ました。蓄音機屋と小鳥屋が有って新道の角が合羽屋で桐油合羽や油ッ紙が商品ですが後に呉服のくがやになりました。右角が煙管(きせる)で有名な村田本家、間口の広い大きな店蔵で裏に細工場で鞴(ふいご)祭りは盛大にやり、親戚や町内の人を多勢招んで、御馳走したり、蜜柑を撒いたり。蜜柑の必要な事は紀伊国屋文左衛門の話で御存じでせう。家から抱への鳶が入れてあり、お世話になりました。廃業されて右隣の木造店で番頭さんが村田を継ぎ、跡へ並びで団清と云ふ団子屋小林安右衛門氏が立花屋と云ふ菓子商を開業、後に町会長を永く勤めました。路次が有って清水湯、五時頃から朝湯が有り、夜は二時頃迠営業、然し収入も多く盆、暮の付屈(つけとど)けから元旦の初湯には水神(井戸神)様へお賽銭のおひねりが番台に積まれ、桶は三助持ちで新らしくする時には、桶無尽(おけむじん)と云って寄附を貰ひ、流し場の境の板羽目に貼り出しました

江戸時代は大火(おおび)を焚くと云ふので町内の頭の責任でお許し頂いた関係上、お湯銭は組合の者は無料(たヾ)で寧(むし)ろお湯屋から挨拶に来た位ですが夏、冬に暖簾を贈ったり、三助に祝儀(つけとヾけ)が要りますが平素、毀(こわ)し材や古材、焼材等遣るので燃料(まき)費(だい)が無料(ただ)>で済みました。隣がおしるこ、梅園で小さい器のぜんざい、お雑煮と塩漬けの紫蘇(ちそ)の味は忘れられません。

時計屋は中村時蔵と云ふ人でしたが後に替り、其の倅が挿絵画家、御所伸(みしょしん)です。角が星川屋水菓子店で夏の氷屋は元祖だと本に出て居て小豆氷等小豆が沢山あって上へ氷が乗って居るので今の氷沢山の小豆ポッチリと大違ひで自家製のアイスクリーム、手で廻すミルクセーキの味は今の何所にも無いでせう。主人は相原惣八と云って薬研堀の山田屋(前出)の倅で妹の『まん』は新橋の踊りの名妓となり演舞場の出来ない頃で歌舞伎座、新富座等で名声を博し、倅が現三之輔で花柳界の重鎮です。曲がって講釈場、福本で主人が左七。真中が入口の広い土間と下足置場、広い階段を上がると弐階が客席で中弐階もあり三百人位は座れたでせうか。左の側に帳場格子で仕切った定連席に『に組』定連席も有り五寸角を伐って造った油浸みた木枕をして寝乍ら聴いて居ました。福本が廃めて町内で株式にして東洋倶楽部(貸席)、階下で東洋タクシーを営業。新道の角が永田屋旅館上木で父親の友達なので私の事を『小亀ちゃん』と呼びました。曲って按摩の今泉で弟子が多勢、お得意も良く娘が『おもん』です。立花屋の長屋で内科医中村、和田の文ちゃんが居ました。前の角が差配や町内の書役で顔の利いた町役人の名残りの様な『井口』で『岩立花』等芸妓屋があって角に寄席の立行燈があり、福井屋旅館に続いて時計屋福田(註一)と岡田亭洋食屋があってから路次の行止まりが広い敷地の真中に友熊稲荷(註二)が有り、私達(あたしたち)の遊び場でしたが後に路次を貫(ぬ)いて御影石を敷いて芸妓屋新道とし、開通に藤棚や提灯を吊って祝ひ、稲荷は左側に納め、突当りが立花家(寄席)です。

(註一)福田の倅が戦後すずらん通りへ紅ばら喫茶店を出した。

(註二)米沢町が御大典に造った神与は友熊稲荷に置いてあったが震災で焼けた。友熊稲荷は震災後金比羅神社の境内に祀った。

天・《天の下に点で「てんぼし」》の大池酒店は店員も大勢居て大繁昌、角が万珠堂で以前は精力薬が主で、後に美音錠で売出し、店の前に直径六尺も有る鉄釜が有って天水桶(用心水)になって居ました。『四ツ目屋の近く餅屋幾代なり』『提灯に四ツ目をつける馬鹿親父』『四ツ目屋の女房、わッちが受合さ』等、沢山の川柳で知られた四ツ目屋は並らびに有り、晩年売れないのか、店で和裁を教へて居たが、売って居る薬を知らないのか、大きな毛生薬の看板の前で未だ生へ揃はない様な娘がお針を習って居るのが可笑しかった。寄席の新道へ曲る角が珊瑚珠と云ふ髪床で私は理髪が嫌いだったが子供の癖に耳掃除を上手にするので此の家(うち)へ行った。角に『小さん』とか『円蔵』とか書いた行燈が立って、曲がると右側が寄席で東京で五本の指に折られる立花家で広い土間に美(い)い声で有名な下足番が『シャアーイ』と呼び込むのが両国公園の方迠聞こへた。前の新道は以前は行き止まりだったが前に書いた様に大池酒店の方へ通れる様になったので立花家(註三)が突当りになった。

(註三)立花家路次の楽屋口の前に天金(榎本)が居て出前が多かった様で倅が天孝と云って公園前に床店をやった

福本と違って平家建だが中二階の客席もあり右側が桧の板張りで客が座って頭の寄掛る所が黒く油染みた所を艶拭きするのでピカピカして居た。左の客席の障子の後ろが廊下で横長の庭が有り、落着いた寄席だった。寄席や噺し家の事は別に書くとして元の表通りへ戻ると角が『沢田』と云ふ大きなお店で後に『伊沢』と云ふ貴金属屋だと思ひますが一人娘なのでお婿さんが華族さんから来たので当時は珍しいので評判でした。並らびの『山形屋』と云ふ米屋の娘『おきんちゃん』(米屋の娘だけに色が白かった)は柳橋の芸妓に出て、角力の(しろがた)のお角が富重と云ふ有名な『どぜう屋』で旦那は見原徳次郎と云って温厚ですが太っ腹の人で、角がしに伊勢庄と云ふ川魚問屋も持ち(深川高ばしのどぜう屋は親戚なので伊勢喜と云ふ)、先代は静岡の焼津の漁場の出身でした。

藤畳敷(とだヽみじき)に敷長板(しきながいた)の広い見世に朝早くから夜遅く迠、薄い鉄鍋で備長炭の鍋台で飲んで居る人、弁当飯を持って来てどぜう汁だけで返る客等絶へる事無く、歳之市の時等高張提灯を立て薦ッ冠り(こもっかぶり)の酒樽をずらりと積んで弓張提灯も明か明かと、お客が外に並らんで待つ程賑ひました。私共でも子分が二人位店抱へに入って居て普段は元より、物日には多勢お手伝い、立ち番等に行きました。

お富ちゃんと云ふ何日(いつ)も銀杏返し等に結って、切(き)りッとした美人の下町娘が居たが気の毒に鎌倉の転地先で亡くなって火葬にせず乗用車で迎へに行き、同乗しましたが実に綺麗でした。世の中は不景気でもお店は繁昌したので、お祭り其の他にも気前良く、町内でも金銭(おかね)や何かで陰でお世話になった人が随分居ました。面白い事に私達は自分で食べる位のお金が有っても行けず、無くっても行かれた。と云ふのは其の頃は喰ひ物屋ヘ行って他(よそ)の組合の者とか義理のある知り合いとかに逢ふとお酒とか料理をお使ひ物に届けなくてはならない。又組合とか目下の者が居ると『オイ勘定はいヽよ』と此方で払ってやらなくッチャならないからです。其のかわりお店の旦那とか目上の方だと、向ふ様から頂き物をしたり、勘定を払って下さいました。路次の隣り角が「よし町」の桜川魚八と云ふ太鼓持ちの娘が「とヽ子」(魚八の娘だからとと子?)と云った芸妓屋、それから枡屋と云ふ待合で親方は『目玉の銀さん』形拵(なりごしら)えの旨い人ださうでお梅チャンと云ふ可愛い娘さん、是が今女流長唄界で有名な杵屋佐登代さんです。

新道の角に似鳥(にたどり)と云ふ地主、家主のがッちりしたお婆さんが居て信玄袋を下げて地代、家賃の取立てに歩るいて居た。曲ると中嶋印刷(後に林印刷)の他に山本、若村、川泉等と云ふ待合が在って重チャン、およッチャン、善チャン等といった友達が居た。通りに戻ると芸妓屋松田家の小徳さん、旦那が銀座の白牡丹で弟が市川左団次の弟子で左喜之助と云った。隣りが待合だったが新柳町から和泉家と云ふ芸妓屋が越して来た。私の女房は半玉(おしゃく)から『和子(わこ)』と云ってお(ひろ)めをして一本になって『分和泉(わけいずみ)』の看板で自前になった。長唄の勝太郎師の名取りとなって唄をやり、やなぎ会、みどり会にも初回から出演して居た。他に幸太郎、いの字、金香、君太郎等(わけ)看板を持って主人は元吉原で『おまた』さんと云ふ芸妓であった。それから角の芳梅亭となるが両国公園の角の水菓子屋で星川屋の事を書き落した。私の祖父の妹『とく』が容色(きりょう)好みで嫁に行った、やげん堀の妙見堂の(そば)の山田屋(太田牛乳辺)と云ふ大きな紺屋(こうや)の倅で相原惣八と云い、余談だが妹が『おまん』と云って新橋から『米松』と名乗って花柳界の踊りの名手で二蝶会、OS会等の大会に新富座や歌舞伎座で踊り、先々代の家元花柳寿輔との仲に出来たのが現花柳流の三羽烏の一人で三之輔です。惣八と親父は従兄弟の間柄で当時珍らしかった三階建ての立派な角店で、夏は氷屋をやったが『物の始まり』と云ふ本に『掻き氷の元祖は米沢町の星川屋である』と載って居た。今の氷小豆と違って(今のは小豆より氷が多い)大粒の甘い煮小豆がコップにいっぱい、上に掻き氷が山に盛って美味い事、評判で自家製のアイスクリーム、ミルクセーキ等高いが良く売れ、西洋果物等沢山有るので遠くから買ひに来たので随分繁昌して景気が良かったのでお園チャン、(ふう)チャン、秀チャンと三人女の子が居たが幼稚園から『お茶の水高等女学校』を卒業させた位だったが不景気になってから大阪寿司に譲った。店の者の太吉(たきち)は三丁目の待合喜多家(きたや)下男(ぢいや)となり、貞公事、森田貞助(もりたていすけ)は鳥安の出前掛り(でまえもち)をやったり、歳之市の地割りを手伝ったり、芸妓家、待合、女所帯の小用(こよう)を足したり、如才無いので重宝がられ、名物男であった。と云ふのも赤縮緬の羽織を着た野幇間(のだいこ)の平助(明治時代に野幇間で名を売った)の倅だとか。そば屋の井筒の女中と夫婦になって酒屋『大池』の新道に所帯を持ち、三女が出来たが腸結核で早死にをしたが身寄りが無いので私が世話を焼いて葬式を出したが人気者だったので町内や見番の箱屋連中も気を入れて奉加帳式に香典も集まり遺族は女房の実家信州へ帰ったがそば屋の出だからかも知れない。二丁目を終ります。

 

 私が育った所から書いたので逆になったが二丁目から壱町目へ移ると萬殊(まんじゅ)堂の向角が『加賀屋』と云ふそば屋があったので『加賀屋横丁』が通り名になって居たが私の憶へた頃は『和気』とか云ふ紙問屋が居た。其先に両国館勧工場(かんこば)であったが後に貸席になり階下に今、左ヱ門橋通りに居る『宮松』の店があり、隣りが『古木医療器店』、次に有名な薬屋『ばせう』支店(店の屋根に芭蕉の葉の看板があった)で両国橋の電車通りに本店が有った。江戸名所図会にも両国名物の一に芭蕉の葉が書いてある。次が『大木五臓園本舗』で神田鍛冶町にも大きな支店があったが現在(震災後)は其所に移った。毎日の新聞広告に肥ったのと痩せた人の絵に『五臓園飲んだ人。飲まぬ人』と載って居たので対照的の人を見ると五臓園の広告の様だと云はれ、親父は二十四貫もあり、お店の半天を来て居る(大木五臓園も抱へが二人入って居て馳付用の刺子半天があった)と揶揄(からかわ)れたさうです。見世の一部が写真部に専門の番頭も居て写真用薬品を売って居た。写真機は主に舶来だったので硝石(がらす)板で湿板乾板を自分で造り、現像、焼付も()った時代で薬品屋で是を扱ひ専門に大きくなったのが小西六、浅沼商会等でせう。次が『旭寿司』で倅の由っちゃんは名人と云われ、広小路にも夜中迠床見世を出して、随分繁昌しましたが、どんなに忙がしくても自分が握り、お客も由っちゃんが居ないと乃れんから覗いただけで帰っちゃった。現在(いま)の客は店の名前を喰ひ、小僧が握っても喜んで居る。第一寿司屋でお絞りを出しお箸、お通しを。客も沢山喰べるのを見得(みえ)にする。由ちゃんは『飯のかわりに喰ふ奴にや握る気がしねえ』と云って居た。天ぷら、牛鍋、洋食等喰べた帰りに、三つ四つ、つまむのが(おつ)だらう。寿しをつまんで行こう等と云った位だ。隣が本屋で次が有名な酒屋『四方(よも)』の間口の広い大きな店蔵で奥深い敷地内に井戸が三つもあった位に広かったが私の知った頃は『内外装飾株式会社』になって居た。新道の突当りが森金写真館(主人は陸軍だかの御用達写真師だったが早死して未亡人が経営して居たが息子が後を継いだ)でスタヂオの片屋根が硝子張りでフラッシュも電気照明も無く、レンズも感光度も悪いのと、シャッターもタイムかバルブなので動かぬ様に首の所を鉄金具で押さへられるので其の頃の赤くなった写真を見ると直立不動の姿勢です。通りの角が『オットセイ、命の親玉本舗』の西洋館で飾窓(ウインド)にオットセイの剥製や肝等が飾ってあり、親父さんは(かは)った人で息子に華盛頓(ワシントン)と名前を付けたり、自分はサンタクロースの様な白髭と服装(みなり)で真赤なマントに白で大きく『命の親玉』とあるのを着て当時未だ少ない自転車に乗って居た。曲る横丁を向ふ角の横山町三丁目に『虎屋』と云ふ薬屋で虎を描いた大衝立が店頭(みせさき)に立てられ、透頂香(とうちんこう)(痰の薬)の店があったので虎屋(とら)横丁と云った。呉服屋だの足袋屋、錻力(ぶりき)屋からすし屋と云ふ桂庵に中村草履屋。路次の角が勇床(いさみどこ)で親方は坂本勇馬と云ふ。士族だとか。清元は勇太夫(いさみだゆう)と云った。右角が名代切揚精進揚(きりあげしょうじあげ)五色揚、老人(としより)夫婦が揚鍋の前で揚げ、小女が十人位座って俎板の上で人参、蓮、牛蒡、甘藷(さつまいも)光葉(みつば)等を下拵えをしたのが山の様にあってお昼前には横山町、馬喰町から堀留辺り遠くから大問屋の店員のお惣菜を買ひに女中や小僧が大きな岡持や器を持って長い行列、一人で何百、何十と買って行くのでお昼過ぎ遅く行くと売切れる事が多い(夕方は売らない)。間に挟まって十や十五で好みの注文なんかすると怖い婆さんに頭から怒鳴りつけられるのも評判だ。隣が畳屋の『柴友』で広い店の土間で職人が大勢、お得意が浜町花やしきの常盤家《大常盤という屋号らしい》とか、大きな料理屋(おちゃや)や大店でも畳敷きが多かったのでお出入りの店半天を着て仕事をして居た。敷込みが終ると必ず紺の股引腹掛に店の半天、足袋に草履で見廻りに来て、急所をトントンと踏んで見る。職人には御祝儀に丼物と一本つけて上げる。香りの高い青畳に座ると古い女房も取り替ヘ度くなる、なんて云ふのが其頃の気分でせう。角が『亀の齢(かめのとし)』本店で『神崎三郎兵衛洋酒店』、大きな店蔵の地下に『亀の齢』(養命酒)の(かめ)一配(いっぱい)で下戸の者が入ると(にほい)で酔ふ位。神田明神の氏子総代を務め、エビスビール会社の代理店なので恵比寿の工場から初荷に、造り物のビール壜の花車(だし)を東京中の鳶頭(かしら)の木遣りで吾妻橋へ向ふ時に休憩に寄った位で、角の倉庫の壁に蜂葡萄酒の大きな広告が画いてあった。仕事に行くと若い者に店の人がビール壜の首をコンと叩くとコロッと落ち、コップで飲ませて呉れた。口金を抜いて無ければ返品が利いたさうだが素人が真似をしても駄目だ。店員(みせのひと)も多勢居て私共(うち)から店抱(たながか)へも入って居た。哥沢(うたざわ)の家元芝金が二号(おめかけ)で、二ノ宮に別荘があった。二軒程商家があって角が鳥政(とりまさ)で木造だが出桁の立派な店で、お内儀さんは靖地(うけぢ)鳶頭(かしら)の娘で、小僧の岩ちゃんがすずらん通りの角へ『鳥一』の店を持った。曲ると筆問屋が有ってカネの手の隅が土居医院、代地の明治病院出身で母が入院した時係りだったので顔見知りで有り、開業以来お世話になり、祖母(おばあさん)も母も死亡診断書を書いて頂き、私も病気勝なので随分お世話になった。先生が亡くなって御法事を鶴見の総持寺の大広間で行われた時、立派な来賓が多勢居るのに正面の床前に席を頂いたのには恐縮して席を無理に替へて頂いた。隣りの袋物問屋岩井商店も大きかった。次が伊藤質屋で大震災の時、屋根瓦も壁も落ち、土蔵(くら)が壊れたので旦那が飛んで来て『大切な預り物が入って居るから修理(なほ)してくれ』と云ったがあの場合如何する事も出来なかった。土地ッ子のお老人(としより)が陰気な『しもた家(住宅風)』に居たが姓名(なまへ)を忘れた。角が炭屋で向ッ角がどぜう屋です。背の低い旦那で後に積上げた炭俵の上から落っこちて死んだ。曲って並びに間口の狭い店が何軒かあった。鼈甲細工屋で竹の皮の間へ鼈甲を合せ暖めた大きなヤットコで挟んで「チャンチキ、チャンチキ」と締金を拍子を取り乍ら締めて居るのだの、黄楊(つげ)屋で櫛の歯を引いて居るのや、下駄の歯入れ屋で下駄や日和下駄に樫の板を削って器用に歯を入れて居るの等、立って見て居た憶えがある。芸妓屋から皮袋物問屋『向笠商店』は厚い框に畳の広い見世の両側に職人が並んで皮を裁って居て、商品戸棚に製品が積んであった。小岩に豪勢なお住居があって大旦那の葬式は住居で()った。次が道明寺じるこで小さいあんころ餅もおしるこも美味(おいし)かった。背のすらッとした美人(いヽおんな)の姉妹が居て流行(はや)ったが妹は芸妓になった。路次があって五色揚の所へ抜けられて住居風の家だの土蔵等があった。路地の右角が魚藤(うおとう)で小若連(米沢町に若睦と小若があった)で富重の庄ちゃん、花喜の徳ちゃん等の息子連と仲良しであった。信濃屋と云ふ袋物屋は格安に紙入、煙草入れ等を(こしらえ)る店で、私も根付、目貫、緒〆(おじめ)等を集めて下げ煙草入れ、掛守り等を誂へたが親切な旦那であった。名人長常(ながつね)が彫ったと云ふ蝙蝠の金具や、本小豆(ほんあずき)と云ふ今は見られない長鎖や煙草入れを現今(いま)でも大切(だいじ)に持って居る。岡本は煙草屋で洋傘(こうもり)を売ったり、修理(なおし)をする他、商品券の売買をやって百貨店、鰹節の(にんべん)、お茶の山本山、海苔の山本等の商品券が飾窓に陳列してあった。以前は葬式に菓子折を会葬者に出したが何日(いつ)からか、菓子の切手を出す様になったので溜った人から割引して買ったりする。鈴木屋山岸も大きな酒屋で問屋と小売りをして居た。米沢町三ヶ町を大体廻ったが幼い頃から遊んで歩いたり、お使ひに行ったり、年頃になって松飾りや祭礼の集金に、仕事に出る様になって路次の隅々迠知って居る積りだが震災の前と後、区劃整理があって戦災の前後と(かわ)ったので抜けて居たり多少の記憶違いがあったら御容赦(おゆるし)下さい。