『三代続かなきや江戸ッ子たあ云えねえ』なんて云われますが江戸時代までも此の意味での江戸ッ子は少なかった様で徳川十二代将軍家慶公の頃、江戸の作家で西沢一鳳と云ふ人の書いた物に『江戸中には江戸ッ子が一歩、ぶち(まじり)が三歩で残り六歩は他国者である』と御座いますが江戸ッ子と云ふ事は三田村鳶魚氏も『難しい問題だ』と云はれ、共に江戸研究家、田村栄太郎氏も『江戸ッ子とは何ぞや』と云はれて居る様に芝居に出て来る江戸ッ子の代表の様な花川戸助六も実は曽我の五郎であるし、男達(おとこだて)幡随院長兵衛も武家出、御所の五郎蔵は浅間家の家来で、直侍も御家人で甲州に叔母が居たり、髪結新三は上総無宿、切られ与三郎も横山町だが伊豆屋と云ふ屋号だし粋な役柄でも純粋の江戸ッ子とは云へない様で僅かにめ組の辰五郎だけかもしれない。最も他にもあるであろうけれども。私共では遠く元禄の頃から両国に住んで居り、横山町に在った菩提所眞言宗医王山竜光寺、後本所に移り、只今は亀戸、福神橋際、此の寺の過去帳に歴然として居り、私で丁度十五代目に当りますが代々町火消しの頭取を勤め、鳶職(しごとし)と土砂業を営んで、只今久松中学校の在る所(とこ)が横山町辺迠、延びて居た堀が薬研の形に似て居るので薬研堀。此の水が隅田川へ流れ出る所に柳橋が架り、両国側の河岸が揚げ場になって居たので海老屋(只今の大木唐がらし)と云ふ回漕業、福田屋と云ふ舟宿、此所のお内儀さんは女傑で石崎アサと云ひ、箱屋峯吉殺しで有名な花井お梅の裁判に証人に出て居ますが娘のおぬいさんと云ふのがお袋と同年配で小日向水道町へ越してからも幼い頃でしたが連れて行かれたのを憶へて居ります。 それから手前共のつちやの土砂(つちすな)等の揚げ場、亦尾籠(びろう)なお話ですが汚穢船、これは花柳界(いろまち)では「汁こぼし」と云ったさうで此の他芥船(ごみぶね)等共同揚げ場になって居ましたが明治三十年頃か埋立て浅草橋際に在った千代田小学校が移転したので、それぞれ商売が出来なくなり、つちやも廃めましたが店蔵や褄蔵(つまぐら)は共に大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東大震火災迠残って居り、鬼瓦には家紋の鬼蔦、巴瓦には角に三の字が着いて居りました。

 

家業がつちやで家名が代々三之丞(じやう)を名乗り通称(とおりな)を『つち三』と申し祖父(おぢいさん)の十三代目は本名が三八と云ひおとくと云ふ妹と二人兄妹で妹は大さう好(い)い女で薬研堀の山田屋と云ふ大きな紺屋(こうや)へ美貌(きりょう)好みで嫁に参ります時は長棒のお駕籠で行くのを『オーイつちやのおとくさんの嫁入りだ』と云ふので軒並みに高張提灯を出して頂いて大勢の御見物だったさうで祖父(おぢいさん)の三八も評判の美男(いいおとこ)<で温厚且つ利口な人だったのでお役所や仲間の人望も高く御町内、御店(おたな)の受けも宜しく、五十才で明治四十年五月十五日に亡くなりましたが時の新聞に『名物男死す』と云ふ見出しで出ましたさうで、明治の御維新で大名火消や旗本火消が無くなり、火事早い東京に、町火消だけになったので、消防組となってからも市民の信頼も厚かった頃で組頭も永く勤め鳶職(しごとし)の方も盛大にやって居たのでに組の半分はつちやの身内だと云はれた時代も有ったさうで、土屋の方も伝馬船が三隻位あり、これは隅田川の川底の『ヘな(ねば)』と云う土を掬い上げ安普請の荒壁材に売れたので船頭、車力、店の者が居たので台所には箱膳が積み重ねて有り、棚には箱弁当が並んでいる位なので年の暮れには菜漬けを四斗樽に幾つも漬けるので子分の女房連(かみさんれん)が手伝ひに来て呉れ、其の御礼に正月用の下駄を上げるのが仕来りになって居たさうです。祖父の妻は神田豊島町で江戸時代から町名主(ちやうなぬし)、大差配(おおさはい)を勤めて居た丸山家の娘で一女三男を設け長女をさと長男を彦太郎、次男亀次郎、三男を三之助と申しましたが長男、三男共に家の業を嫌らひ商人になりましたので次男亀次郎が家業の跡を継ぎ其の妻ふじは幕末の講釈(こうしゃく)で小柳平助と云ふ角力(すもう)殺しの中にも出てくる本所一ツ目の港屋と云ふ宿屋の次男、谷下田(やげた)亀吉と妻とくの間に出来た娘で、其の間に明治三十八年三月六日長男として誕生しましたのが私古川三右衛門で御座います。

 

その後妹弟(きょうだい)が生まれたが何方(どちら)も直ぐ亡くなり私も幼い時から病身でしたが其の頃の薬研堀は町名に相応しく一名(めい)、医者町と云はれた位で外科の侍医片山、眼科の甲野、内科に朝比奈、森、河野、女医高田の他浜町の小児科で侍医吉松等の先生方がお店(たな)お出入りですので随分御厄介になり、小学校へ行っても休み勝ち、蔵前の高等工業の付属の入学試験も受けたのですが折角学術試験に合格したのに三日目の体格で落ッこちたので高等小学校へ上がったが予習へ行ったり夜学へ行ったりで成績は甲が半分、乙が半分で丙や丁はありませんでした。卒業して仕事に出る様になってお蔭様で健康(ぢょうぶ)になり満十八才になった大正十二年七月消防組員を拝命したのですが当時は土手組(どてぐみ)と云ふ若者(わかいしゅ)が多勢居て仲々出られないので『辞令書 警視庁第一消防署七番組所属二等消防手を命ず』と書いた辞令書を頂くと額へ入れて飾ったり、赤飯をたいて祝ったりしたものです。

 

それから間も無い九月一日先にも書いた大地震で火事が起きたの新しい刺子装束(さしこじたく)に身を固め本町の薬屋猫いらず本舗の出火に馳けつけたが風の具合で神田の方へ延焼して行ったのと余震の大きいのが度々あるので一旦町内へ戻り其の内豊嶋町の方へ火が廻って来たので行って見ますと段々組員も手薄になって火がかりも出来ないので纏(まとい)を預かり家(うち)へ戻ると其の内両国の方も危なくなって四方真っ赤な火の海、中に僅か下谷方面だけが暗いので立退く事になり手廻り品を背負い纏を担いで家中で浅草橋迠参りますと行くにも戻るにも身動きも出来ない程の人と荷物の山の混雑、危険を冒し、火の粉の散る中を横山町から馬喰町、郡代を抜け左衛門橋を渡る時、代地から裏川岸へ飛び火をしたので浅草橋は死人の山となったのを後で見て命拾ひをした事を有難く思ひました。それから佐竹通りへ出て御徒町へと参りましたが行くも返るも出来ない人の波で不得止(やむをえ)ず親父の仲良し、下谷町(したやまち)赤堀長次郎(あかぼりちょうじろう)と云ふ組頭の家へ寄りました所、出入り屋敷の加藤様の庭へ立退いて居たので此所へ厄介になり、夜明け頃段々火事も近くなったので赤堀の勧めでわ組の纏と一緒に邸の池へ組合の纏も重しを着けて沈め鎮火後出しに行って事無きを得ましたが命をかけて纏を護る精神を親父から教はったのです。

 

焼跡に仮小屋を建て残土片付けやバラック建設等で忙がしく、我が家も荒格子造りの二階屋の本建築も出来た翌年十一月十一日交通事故で四十四才の父親が亡くなりましたが前月親父は『まだ早えや』と云ふのを組合の推薦で筒先世話番(せわやき)に出て居りましたし、木遣りの地蔵講に入れて呉れて(一声会は十六才の時入会)間も無くの出来事なので自分の死を予期して居たかの様に思はれます。それから復興局が出来て区画整理の始まる昭和二年か三年頃迠は新建築停止なので、建築業(けんちくや)は不景気が続いて若年の私は母親(おふくろ)に随分苦労を掛けた事で御座います。其の後第一区筒先百人の総御職(さうおしょく)も勤め赤筋(小頭副)に昇進したのですが組合では家柄を重んじ伝統を尊重するので其の家の倅は道具持もさせず抜擢するので昇格が早く筒先に出たのも小頭副も後年、組頭に、又幹事、翁会の中でも各区で一番年若でした。

 

明治から大正へかけて豊嶋町の八右衛門と土屋三之丞とおぢいさんの代からおぢさん親父と交わるがわる組頭の席を押さへて来ましたが大正十三年続いて歿しましたので二、三替り私が小頭副に上がった時は(披露の式は矢ノ倉、生稲楼(いくいねらう)亀井町又右衛門事、水谷長四郎さんが組頭でしたが、組合は元より地蔵講の世話や幹事になってからも各区総代とも良く交際(つきあ)い、利口な人でして、私や母親(おふくろ)も尊重して呉れ私も話合ひ手になって事務、会計、出役等に協力致しましたので可愛がって呉れました。

 

昭和十六年五月歌舞伎座で六代目尾上菊五郎が宇野信夫新作の『初払魚(はつがつを)』と云ふ狂言を演った時に前月末に久松町の直さんと云ふ頭のお通夜の晩にお花を引いて居る所へ手入れがあって萬世橋警察へ大半連れて行かれて居ないので組頭と長(やげんぼり)さんと私で木遣りを教へに行きましたが芝居が好きで特に大好きな六代目に毎日会へるので楽しみに千秋楽(らく)迠通って舞台裏から木遣りを手伝い、纏の振り方も教へ、半天や浴衣を貸したり、各区へ総見を頼んだ時には切符も沢山引受け親戚や友達に頼んで其のお弁当やお土産に歌舞伎最中を自費(じまえ)で負担して好い気持になったりしました。

 

昭和十三年四月に内務省令に依って全国消防組が解組になり防護団となったが東京では江戸消防紀念会を結成して町火消の伝統の気風(きっぷ)と木遣り階子乗り纏保存に専念する一方、消防署の補助員として活躍し、大東亜戦争が始まり、東京鳶職組合を造る事になり幹事の亀井町(かめゐちやう)が第一区の創立委員となって奔走したが設立を見ずして残念乍ら翌年一月二日突然亡くなったので私は当時小頭でしたが推薦されて久松支部長(警察署単位)となり、後に戦争の激しくなるに連れ鳶工事統制組合、労務供給業組合等と移り異(かわ)り、一方大日本労務報国会が出来て是も久松支部鳶分科会長に推され、防護団も久松特別班の総班長と多忙を極め事務運営の為に謄写版を買ひ下手な字で鉄筆書きを習ひ、字引きで字を憶へたり、伝達連絡に、動員の割当て、空襲爆撃の後片付整理、重要建造物の防備、防護団員としては昼夜の別なく警戒勤務から消火出動に心身共に休まる暇も無く活動致しましたが昭和二十年三月十日の帝都最大空襲に依って家財共に焼失、苦労の甲斐も無く敗戦、八月十五日終戦となりましたが組合の土地は無論全部焼野原でしたが早速組合の復興を思ひ立ち、組合員の立退先へ連絡して、ときの組頭塩町嶋庄次郎宅へ寄合、基本金を持寄り再興、後に選挙で組頭になりまして第一区が各区と分離して統和会と云ふ名で独立して居ましたが警視庁消防部から進駐軍外人に紹介の為出初式に参加して呉れと云ふのを機会に各区と和解して久しく絶へて居た初出に行く事になりました。纏、階子(はしご)、長鳶等全て新調しなければならぬので統制品の純綿、麻、皮、もち米、薬品等の物資を配給申請をして半天は従前の箱崎の磯屋吉兵衛。股引、腹掛、草蛙掛は三の輪豊多屋へ、階子は深川猿子(えてこ)橋伊東屋へ、纏は江戸時代からの神田竪大工町の纏屋次郎衛門が廃業致し、居りませんので外神田のだし鉄で新調二度と行《やれない》と思って居た一月六日の晴れの出初式に参加出来て内外人の賞賛を博し初出と云へば纏、階子乗りが目当てと云ふ様になりましたが、是は京橋の都会議員篠原虎之助氏のお骨折りと消防部長藤田次郎様と総務部長篠田信男様の御尽力のお陰でしたがお気の毒にも藤田部長は或る事情で左遷され皇宮警察署長になられたが宮城内の女官寮の火災後、亦(また)京都警察署長に移され偶々(たまたま)全国署所長会議に上京中急逝された事は残念でしたが其の御遺体を特別貨車で送る時に総代、幹事が東京駅にお見送りに行き、当夜は寒中それも非常に寒い晩でしたが全員外套を脱いで赤筋の半天で安置室からホーム迠担いでお運び申したのですが奥さんの御尊父、元警視総監丸山鶴吉氏が痛切に感じられ、京都の本葬に総代が参列したが葬式の挨拶に丸山氏が『藤田次郎は幸せな奴だ。江戸ッ子の代表の鳶頭、関東の親分達に柩を担いで貰った』と云はれたとの事、私達には昭和の大岡越前守様とでも申しませうか江戸消防紀念会の復興の大恩人で御座います。

 

後に消防団其他から横槍が出て出初式に出られなくなり、宮城前も使へなくなったので紀念会が主催、消防庁後援と云ふ形で、日比谷や上野の公園で何回か行(や)りましたが、始めて借用に日比谷公園課へも組の竹本と行った時、公共の催しで無いから、前例が無いからとか云って断られたのですが、私が明治、大正の頃、警視庁消防出初式が行はれた事、一俳優新国劇の沢田正次郎の告別式に貸した事等を挙げて交渉、漸く借りる事が出来たが後で竹本が『旨うめへ事を憶(おぼ)へで居たぢゃァねえか』と云ひました。出初式のプラン、纏の配置、階子乗りの位置、模擬火災の建物、花火の準備、警察の許可、新聞社、放送局、報道関係への挨拶、印刷物の原稿等殆んど任かされましたが、始めての裏方の苦労は大変な物でしたが、毎年五月二十五日催します浅草観音堂裏、消防殉職碑慰霊祭にも云へる事で、式次第、方法、招待状等今でも其の通り行はれて居ります。書記任かせで有った各区会計が曖昧であったので各区に会計幹事を置いて毎月の収支は立会ひで行る事にして、亦(また)幹部昇進者に委嘱(いしょく)状を渡す事に致し、向島三囲神社境内に木遣塚が有る事を報告、例年六月定式寄合を兼ね、手向けの木遣りを奉納、組合旗を造る事も提案して、第四区の御殿町と二人に任かされ区々(まちまち)で有った紀、記を調べた上、紀の字を使ふ事に定め、各区人名簿も無かったので従前の型に則り、纏の下絵は橘町に住む当代随一の高橋藤氏に依頼、印刷は橘町内山印刷㈱に頼んで和綴で造りましたが住所姓名の調査、下絵、印刷の校正に徹夜も幾晩か致しましたが此の形(かた)は只今も使はれて居ますので良い記念になったと思って居ります。 終戦後マッカーサー司令部の命令で町会、在郷軍人、青年団始め各団体が解散を命ぜられ紀念会も同じ立場にあったのですが、も組の竹本と二人で進駐軍に陳情に行ったり消防部の口添へとアメリカの消防研究家エンゼル博士のお計ひで危なく解散を免れ、博士から英文の書状を頂きました。第一区に儀式に使ふ大盃の道具壱式が有ったのですが戦災で焼失したので新調を勧め日本橋木屋漆器店に誂へ、戦前の記憶を辿り盆の長さ三尺位、三ツ組大盃一組台付、銚子弐個を黒漆に金蒔絵で纏、印等を入れて造り各区新年会にも是を貸して女ツ気抜きで年番の道具持ちが役半天に紺の股引腹掛でお酌をして廻る規律正しく古式床しい大盃の儀式を来賓に見せ、内外人の目を見張らせました。此の様に紀念会の再興と充実に努力して参りましたが昭和二十九年七月故有って退職するに当たり紀念会と翁会から始めての感謝状と紀念品を頂き光栄に思って居ります。

 

私共のに組には相州大山阿夫利神社にある良弁(ろうべん)上人開基の滝に唐金鋳物の九尺位ある龍頭が奉納してありますが慶応年間に修理したさうですから納めたのは相当古いらしく、これを造るには町内やお店から雨戸一枚に就いて日掛け一文宛(づつ)頂いたのださうで僅かのお金が馬鹿にならない江戸時代の面白い行り方だと思ひますが大正十二年の大地震の時、山津波で大破致しましたが時の組頭亀井町又右衛門が中心となって組員協力して御町内や有志から御寄附を頂いて修理致しましたが又斯様な事が有ってはと戦後に頭一名が十人宛(づつ)ての責任を持って御店方に講員になって頂き講金年額金百弐拾円を頂いてお札やお土産を配ったりした残金を積立て紀念碑を造り頭は5百円宛出しただけで出来たのですが私が辞めてからは使用、集金方法も替り相当有った積金等も如何なった事か有名無実となった事は残念でもあり先行が心配でなりません。前に書きました戦後『だし鉄』で造った纏をある催しで上野松坂屋へ第一区十本と飾りましたが他組に比べ小さいので慰霊祭費の残金を積み、新たに大きく致しました。横山町、馬喰町問屋連盟で昭和二十七年四月十八日発行の町史の町火消、消防の項に『義理人情が濃やかで緩急あれば身を鴻毛の軽きに比する美点は永く流れて居り、其の気風は義勇消防等に屡々(しばしば)現はれて来る。に組組頭古川三右衛門の如きは各方面から紳士として尊敬されて居る』と載せて頂いたので母親(おふくろ)は泣いて大喜び仏壇へ供へ『是から博奕なんか行(や)って捕まると否(い)けないよ』と云って心配して呉れましたが私が今日迠大過無く来ました事は母親のお陰と感謝して居ります。


写真提供 : 江戸消防記念会 高橋様