明治十四年一月二十六日、神田松枝町から出火、北西風の為、豊嶋町方面から馬喰町横山町両国大川を飛火して、本所深川辺迠延焼して、焼失戸数壱萬六百三十七戸、面積実に拾弐万七千六百九拾七坪と云ふ大火でしたが幸ひ焼残った土蔵で父親が生まれた話は『鳶の者』の項に書きましたが、川が埋立てられ、土屋(つちや)が出来なくなって、お祖父さんが組頭をして居たので交際(つきあい)がかかり、財政困難で此の土蔵も江戸時代から居たのですが手離して、米沢町で待合を()ったり、薬研堀の当時珍しかった玉水館と云ふ写真館の裏へ越したりしましたが両国は離れませんでした。

物心ついた頃は米沢町三丁目七番地の七條洋紙店と笹屋と云ふ亭主が大工で内儀(かみ)さんがやって居る飴屋の路次の(うち)でした。笹屋の隣は九能木(くのぎ)と云ふ公周旋(こうしゅうせん)(芸妓、女郎、妾の売買)の婆さんが居て(たま)が来ると体を()る為、直ぐ湯屋へ連れて行かれるのでお袋が『可哀想に』と涙ぐむ事がありました。

其の頃、子分の国さんが死んで娘のお梅を引取り、私の子守りをして居たので、母親はお菓子は(うち)で与へ、買喰ひはさせないので、他所の人に弐銭の大きな銅貨を貰った時に始めて一人で笹屋へパンを買ひに行き、パンと壱銭銅貨のおつりを呉れたら大喜びで『パンとお金を呉れた。』同じ頃に小さい傘を買って貰ひ、雨降りに差して表へ出て『傘が濡れて三チャンが濡れない』と云って不思議がったさうです。家の前を新道の方へ抜けると静かな通りで左角が常陸屋と云ふ桂庵《縁談・奉公などの紹介者》で白髪の福々しいお婆さんが居ました。右角が庭の広い武蔵屋と云ふ待合で七つ位になった或る宵に声色屋が『エー如何さー』と二階を見上げて居る前へ癇癪玉を叩きつけたら、大きな音がして吃驚したのですが怒りもせずに『今鳴りし鉄砲は……』と直ぐに声色を使いましたが道楽商売だけに洒落ッ気の有ッたものです。

隣りも待合で生稲(いくいね)の娘の稲本、喜多家、美村家と並んで村亀と云ふ小さい宿車が有り、階下が人力車(くるま)置場になって居るので二階が曳子の部屋で猿梯子(えてはしご)で昇る様になって居ました。只今は此の様な事は見られませんが震災後の私の(うち)は真似をして若者(わかいしゅ)部屋に致しました。路次の角に共同水道があって、使ふ(うち)に鍵を渡し、料金(すいどうりやう)を払はせる様になって居て、長屋の多い(とこ)では手桶やバケツを提げて並らんだり、釜で米を研いだり盥で洗濯をして水道端会議をやったらしいが此所では場所柄利用者は少なかった様です。

前の角が石倉で、何所(どこ)かのお住居(すまい)が弐件程あってから門構へ、土蔵附きの立派な(うち)は役者の中村芝翫が住んださうで後に本所の寿座の座頭で座主でも有った関三十郎や森三之助が住んで土蔵(くら)から芝居の小道具を出し入れするのを見るのが楽しみでした。それから(こな)屋の木下四郎兵衛(現在酒店)の土蔵(くら)から大川端へ出る角が店で、それから学校通りへ曲がる右角が梅室館(うめむろかん)旅館で通運汽船の発着場が前に在った(せい)でせうか。曲がって隣が海老屋(えびや)(現大木唐がらし)と云ふ回漕業で前に荷車が沢山並んで大川端から荷の揚下しをして、桃の時季(じき)には南無谷(なむや)と書いた木箱を積んだ伝馬船(てんまぶね)から荷車へ積替へて運んで居ました。

元柳ばしの角であったので弓張提灯の後側に震災迠「元柳ばし」と書いたのを使って居て一銭蒸気の株や切符売場の権利を持って居ました。それからは庭の塀や何軒かあって角は呉服屋の様でした。常陸屋から大川端へ、左が通運汽船の建物で階下が切符売場と事務所、二階が待合室で隅田川から新大橋を見晴し、夏は涼しく、冬は日当りが良く、大きな火鉢もあったので両国公園へ来た守ッ子が集まって来て、中には船員に「いたずら(はらま)」された者も有り、当時としては通運丸で船員帽に洋服がハイカラに見へたのでせう。建物から広い空地でペンペン草が生へて、蝶々や蜻蛉を捕りに行ましたが博奕打の親分で根本治平が素人角力を()った事が有り、後にミツワ石鹸辺りに木造三階建ての臨川閣の洋食屋が出来ました。

隣が久保田梅吉、梅床と云ふ理髪(かみどこ)で此の先代は大変な熱湯(あつゆ)好きで銭湯で水を埋めると『ヤイヤイ喰物が悪いから我慢出来ねえンだ』『外へ行くと湯銭の要らねえ隅田湯があらァ』とか毒口を突いたさうで隣が七條洋紙店と云っても和風の店で框の有る畳敷の店でした。次の笹屋から小沢護謨(ゴム)店息子の(ちい)ちゃんと仲好しで才槌頭(さいづちあたま)なので飛行船と仇名(ニックネーム)をつけ隣が間口の狭い蔦屋半襟店で女主人は眉毛を落した美人で市川左升の妹だったか。倅も左団次の弟子で蔦丸と云って子役時代は人気が有ったが延若になってから腰元位が精々でした。伊藤の英ちゃんは唐物屋で鼻の大きい番頭にエレハントと仇名つけました。新道があって御影の敷石が何時も洗ひ浄められた奥が、あい鴨で有名になった鳥安で、客は良い御常連ばかり、特上の肉に清さん(?)源ちゃんと云ふ名代の庖丁、葱は山谷の『葱善(ねぎぜん)』から一本撰り女中さんも双子縞に前掛を締めた気の利いた年増揃ひで随分繁昌して市川へ立派な住居を建て娘さんはハリキン石鹸へお嫁に行きました。右角が舶来専門の紅屋洋品店で馬車や人力車で来る客が多いので名高く、主人は性器が異常ださうでお内儀さんは浜町市場(やっちゃば)遠柳(えんりゅう)の娘でお柳さん、名の通り優形(やさがた)の人でした。主人は情深い人で、馬力車の馬が両国橋の上り道に懸ると馬方に鞭で叩かれ汗をかいても昇れず、真夏等は疲れと日射病で古い麦藁帽子を冠って倒れるのを、よく見ましたが、是を可愛想に思って橋際に水呑場を造り、(ふすま)等を寄附したり延奈津と云ふ清元の師匠の晩年の面倒を見たりしました。

小間物屋の菊屋は芸妓や半玉が相手で花柳界にお得意が多く旦那は(ひど)い近眼でした。角は野町(のまち)砂糖店で岐阜の大地震で研究したと筋違(すじかい)の沢山入った(かは)った建物でした。曲がって三田ミシン店、路次が有って鳥安の通用口、右角が井筒で両国橋際に居たのが橋の移動で越して来たのですが二階に静かな座敷があり、『おかめそば』が美味(おいしう)御座いました。住宅二軒は立花家(寄席)の木戸を預かる村田さんで『いらっしゃいーッ』と下足番が呼び込む美声。客が来ると村田さんが合札を帳場の机にピシャリと置いて、是は楽屋へ客の数を知らせる合図で軽く『シャイ(いらっしゃい)』是も寄席気分の良い物でした。隣が大脇で子供が沢山居て息子が「クウちゃん」、美人で「あやめチャン」、これで終ひ(おしまい)とつけた名の「かしこチャン」、此の娘二人は通運の前に甘党の屋台店を出し、鉄板で塩餡の大きな大福や豆餅を焼いたのが美味(おいし)く、看板娘も居たので流行りました。角の家は度々替った様でこれで米沢町三丁目を終ります。