両国辺は明治初年まで 小船町<(こふなちょう)天王様(てんのうさま)の氏子(八雲神社)で有ったので六月十日からの 御祭礼(おまつり)の 神与(みこし)渡御には両国が 昼喰(ちゅうしょく)場所になって居て 鳶頭連中(かしらたち)は川岸の 私宅(うち)へ寄ったので『は』組で有名な小舟町の頭とは親類付合いをして何かと打合せ 播但(ばんたん)滞り無い様務めて居た様で両国が神田明神の氏子になる時は御祭好きの旦那方や勇みの親方達で神与蔵の鍵を預かる宮鍵講を造りましたので最近まで片書きや提灯の裏等に必ず両国十ヶ町と書き、我々も十ヶ町の連中と呼んで居ました。

 

御祭礼(おまつり)の 時には宮鍵講が行って錠を明け 御防講(おふせぎこう)と云ふ神社出入りの諸職の人達と両講で宮出しをしたが威勢の良いものでした。只今では両講共 入墨(ほりもの)の 彫勇会(ちょうゆうかい)とか千社の納札会とかお祭りの好きな方達に依って残されて居ますがお金と暇と気合が無くては勤まりません。

 

 

神与の巡幸は氏子が広いので七、八日掛かり神保町、 日本橋(うおがし)、両国へお旅所が出来ますが両国には日数多く三晩以上泊りましたが其の莫大な 費(かかり)は 全部(みんな)両国の負担で其の代り渡御費の寄附は致しませんでした。
御仮屋は両国広小路に出来た関係上、私共と車屋治兵衛とで請負ひ家(うち)の者で藤吉、小さいので人呼んで 小藤と云ふ 小屋(こや)物(もの)の旨師(うまし)が造り、屋根を藁で葺き 周囲(まわり)に立ち木を植へたりしたので両国橋を渡る人が急に社(やしろ)が出来たのかと驚いたさうです。
詰所には氏子総代や旦那方が羽織袴で威儀を正して御神霊を御守護申上げ、 鳶頭(かしら)連中も警護に詰めて居ました。

当時は柳ばしの花柳界も盛んだし土地柄夜中までお座敷帰りの芸妓(げいしゃ)やお客、店を了(しま)ってから来る参詣の人出で遠くからお賽銭を投げるので軒に挟まったり、提灯の中に入ったり、取壊しの時、チャリン、チャリンと音がしたさうで戦後の両国は昔の俤とて御座いませんが御旅所に就いては少しでも昔の名残りを残して置きたいと思ひますが世の移り異りの烈しい今日、江戸時代から続いた町内鳶の在り方が何日まで存続出来ますか町内の方々の御理解御支援とに依り、亦(また)組合の鳶頭(かしら)達のお勤め、遣(や)り方に在る事で御座います。

かやうにお祭りに派手な土地(ところ)故、大正の御大典には各町で神与(みこし)、花車(だし)等を出しましたが米沢町も記念に神与を新調してお揃ひは、若睦(わかむつみ)小若連(こわかれん)がお召(めし)の着物に縮緬の半天、帯は博多へ誂へ、若者(わかいしゅ)は柿色の半天、 女の人 は浴衣で公園際に御仮屋が出来て盛大なものでした。 柳ばしの花柳界でも天照皇大神の掛軸をかけた床の間の様な曳物を引いて芸妓連は早乙女姿の行列、先頭に警護の鳶頭のきやりで 宮城前(きゅうじょうまえ)に練込みましたが各土地から繰込むので大変な雑踏でした。

元来両国は万治二年十二月十三日に長さ九十六間の大橋が架けられ、武蔵の国と下総の国が結ばれた所(とこ)から後に両国橋と名付けられ、交通の繁(はげ)しくなるに連れ江戸随一の盛り場となり、火除け地の橋際広小路に架小屋の見世物から並び床があり水茶屋が並んで露店が店を連ね、涼みに月見に賑はひ、取分け船遊びの許される五月二十八日から八月二十七日までの川開きには大花火を揚げ、川の中は涼み船が沢山出て、其の間を影芝居、写し絵、声色使ひ、新内流し、物売り、うろうろの船等で「川にて水に迷ふ」と云はれ『に』組の鳶連中も川の中で梯子乗り青竹の一本乗りを行(や)り、其の他長さ五間もある心を竹で張った布の龍を片手で差上げ片手で泳いで隅田川を乗っ切り、見事な文身(ほりもの)を自慢の鳶の図が三枚続きの錦絵にも有った位で組合の者は両国橋の普請や大水の時は水防にも出るので水練(およぎ)は達者ださうです。

 

明治になってからも夏には絹張りの絵行燈を建てたり大花火に橋が落ちる程の人出で死人が出たり両国公園が出来てからも寿し、天ぷら、おでん、さざえの壷焼の屋台店や夜店が並んで夜が白むまでお客がありましたのは情街(いろまち)も今程時間を喧(やかまし)くない時でお座敷帰りの芸妓やお酌がお客に買って貰ふので米沢町通りの小間物屋や貴金属屋は深夜までウインドに高価な宝石類を飾って商売して居り、それに色物寄席の立花家と二州亭、講釈場が福本、義太夫が新柳亭に常盤亭、芝居(しばや)が明治座に眞砂座、おさらいや寄合に使ふ貸席等が近くに在ったので往きに帰りに集るので賑はったものです。

浜町一丁目には 野菜市場(やっちゃば)が有ったので夜の明方から青物を積んだ荷車で百姓が通り、魚がしが日本橋にあったので本所方面から買出しに行く盤台(はんだい)を担いだり、バネ車で駆け出して行く魚屋が通るので人足(ひとあし)の絶へる時が無い位でした。

暮に松飾りをする時、通りで笹の束を解(ほど)けないので横丁から一本づつ運び、しゃがんで松を結はいて居ると半天の裾を踏まれました。

此の様な盛り場だったので両国ッ子と云ふと巾を利かせたもので横山町、柳原同朋町(やなぎわらどうぼうちゃう)(後の元柳町、新柳町)吉川町、米沢町、薬研堀、矢ノ倉、若松町、村松町等総て頭に両国と付けましたが昭和の始め区劃整理後両国の町名を危なく本所に取られる所、風月堂の米津松造氏と役員の骨折りで八ヶ町が合併して両国と致し、昭和四十六年三月まで参りましたが地番改正法で異(かわ)り、両国と云ふ名称が失はれる事は代々住み、生れ、育ち、お世話になり、お勤めもして、やがて両国で終らせて頂く私には心淋しい事であります。

只今の両国橋の開通式の時も東京市、復興局、本所区共に西側から渡り初(ぞ)め、国技館(現日大講堂)を式場にすると云ふのを此の時も米津松造氏が先達(さきだち)に反対し、皇居に向かって渡るのが真実(ほんとう)である事、五年三月二十四日今上陛下が帝都復興御視察の際、行幸のあった千代田小学校を式場にする事等を極力主張して実行する事が出来ました。

土地には神社仏閣が数多く薬研堀に不動堂、金毘羅神社、妙見堂、清正公(せいしやうこう)、矢ノ倉に成田不動の出張(でばり)、両国橋際に揚り場の川上稲荷、浜町に清正公、久松町に紋三郎稲荷、東両国に回向院等が有って毎月の御縁日には大小係はらず縁日屋が店を出し、取り分け不動様の縁日には家(うち)の者が提灯をつけ財布を持って芥銭(ごみせん)を貰って夜中に後片付けをする程店が出ました。

年末の歳ノ市には江戸随一と云はれる程、他所は二日宛(づヽ)ですが廿七日から大晦日まで出てるのでだらだら市(梅の市とも云はれた)と云はれ、羽子板も上物が一番売れ露店も町内中に店を並べ、植木屋も梅の鉢植へ福寿草千両等の店が灯油、アセチリン瓦斯等を点けて矢ノ倉の方迠出て、がさのとろ場(卸し屋)もあったので賑い、どぜうの富重(とみぢゅう)そばの井筒、鳥の鳥安を始め飲食店は高張り、弓張りの提灯、酒樽を積んで景気を付け、鳶(しごとし)も何軒かに立番に行きました。

大店では決まったより余分の金を番頭が預かって手代、小僧を連れて、定店(じょうみせ)で縁起に値切って手〆(てじめ)をして買物をして温かいおそば等を御馳走してやるのでした。芸妓はお客にねだって箱屋や待合の姐さんをお供に大きな羽子板を買って貰ひ御祝儀をやって景気の良い手〆が彼方(あちら)でも此方(こちら)でも聞かれて、市の雑踏の中を嬉し相(さう)に担いで廻りご飯を食べに連れて行って貰ふのでした。

組合でも警戒に詰めて居たのでお供を連れて来ない顔見知りの芸妓(げいしゃ)が自分で掛合へないので頼みに来ると安く買ってやると御祝儀を置くか、そば、すし等が後で届きました。震災前には寒参(かんまい)りが盛んで職人の若衆や念願の有る人が白い御衣(ぎょい)で後鉢巻に足袋裸足、提灯を提げ、鈴(れい)を振り「六根清浄、六根清浄」と唱へ乍ら駆けて来て井戸水を頭から被り、本堂の前で拝んで居る内服装(みなり)が凍ってバリバリ音がする、やがて次の所(とこ)へ駆けて行きますが寒中蒲団の中でチンリンチンリンの音を聞いただけでゾッとしました。

矢ノ倉には深い大きな井戸があったのでお詣りが多かったのですが再建されないで御本尊は成田山の本坊に有りました。場所は只今の山本病院の所です。薬研堀も御本尊を坊さんが半死半生で助け出し再建されました。縁日屋と云ふのは夜店と違って葡萄餅、炒立豆、金太郎飴、鼈甲飴、蜜柑飴、電気飴、玩具は山吹鉄砲、針金細工、知恵の輪、飛んだり跳ねたり、ひょっくりひょっくり等、遊ぶ事でどっこいどっこい、紙切り、五目並べ、吹矢等、飴細工、新粉細工、文字焼(どんどんやき)等出ましたが拾銭持って行くと結構遊べました。端の薄暗い所には飛白(かすり)の着物に短い袴、書生風の演歌師がヴァイオリンを弾いて歌を唄ひ本を売って居ました。私が見た日比谷図書館の『江戸名所旧繁花番付(はんかばんづけ)』の世話の所に『江戸一涼所両国(えどいちすずみどころりょうごく)』とあり其他料理屋、喰物、商家等の番付にも随分両国の名が見へ、芝居、講釈、落語(はなし)、清元、常磐津、長唄、端唄、小唄等に両国、大川、柳ばしを題材にしたものが沢山あります。此の様な所(とち)に生まれ生活(くら)せる事は幸福だと有り難く思って居ります。