註)平右衛門町とは徳川家康が江戸に入る時譜代の臣、内藤清成に命じ江戸に詳しい村田平右衛門に案内させ賞に賜った土地。内藤には四谷を。宿が新らしく出来て内藤新宿と云ふ。

東京妓情云、『柳橋、在日本橋区両国橋畔元柳町、新柳町、吉川町、米沢町、橋北、平右衛門町に住む歌妓を総称して柳橋芸妓といふ』と、新柳町は料理待合茶屋にて、吉川町は片側芸妓街、元柳町は全町を挙て綺羅淵叢、巣窟と称するも誣(ふ)に非さる也《偽りではない》又云、『柳橋は旧蘇小門に待つの地に非らず。往時六七十年前岡場所(当時深川音羽等の遊郭を呼んで岡場所と云ふ。岡は外なり)を許されし頃、深川は都門第一の煙花なりしが、越前守水野氏が閣老たるの日、其淫芸の風、自然と市井に移らむ事を歎き、之を廃したるに、是所に依って活路を求めたりし妓輩は、俄に糊口の術を失ない、如何共詮方なきに当りて柳橋は曾(かつ)て深川通いの晝舫発する所なれば、遊客自然と集ふならんとの暗算を起し、一人移り、二人来り技を売りしに果たして善くその目的に投じ、随て酒楼茶肆《長く連なるの意》店を張り、門帛《はく? きぬの意。暖簾のことか》を翻し、一場の熱地に変じ、歳月の久しき。終に純然たる綺羅淵叢とはなれり。 明治七年刊、萩原乙彦の東京開花繁盛誌云、這(この)地は東京府中、第一等の噫《あくび》■ 《意味、読み共に不明》なる地にして婬艶婬美の芸妓、簇々《たくさん群がるの意》として蝿屯《蝿のように屯する》したれば、文明開化の才子、綿々として蟻集せり。其蹇脩を做すが為に、佳肴美酒は玉盤に陳列り、彼の竹に及ずといふなる、三弦の糸能く之を操る。然も肉は声にあらで両口に及ざるものから、是は得ること容易からず。所謂奥蘊《読みはウン。意味は包む》なればなり。

然れば富に誇り才に誇る、断髪先生此に臨みては、青州従事も官鼻とし鱸魚を欲しては松江に、未だ電信機の係らさるを恨み、蓴菜(じゅんさい)を覓(もと)めては、百里に未だ蒸気車の至らざるを歎ずめり。 抑(そも)此地の芸妓たるは、昔所謂江戸芸者の尤(もっとも)巨魁(きょかい)と称ふること今に於て猶然り。其衣装装束は、四方の芸妓が式ふ《もちう?》所、大約淡雅樸《朴》素にして、鮮華綺麗を敢て工まず。其意色を売にはあらで才を貴み芸を鬻(ひさ)ぐ。故に権貴に撓(たわ)むことなく、意気揚々として古の静微妙が白拍子の遺風専有ければ、欣賞せさるは元かりしを近時漸々(しだいに)風俗悪弊て、盛粧艶服厚化粧として、さらに才芸を貴まず只顧獰媚を務として、家業専一の道具と為する者、三弦箱より枕にあり。是妓の非をのみ問ふべからず、近時客風も漸々悪弊て遠国楚声の野様多かり。依て其好みに応する歟盡《意・ことどとく》此地は繁昌中に、格別の繁昌なれば、其景致情態を初編に記すべかりしも曩(さき)に柳橋新誌あり。這作者は幕府の儒官、且つ富豪なり才子なり。彼地に昼夜耽臨して能く其事情に通じたれば写す所鮮明にして写真鏡(かがみ)も及ぶべからず云々。

又柳橋芸妓名表と題して云。柳橋の土人常に謂らく、白魚が上がれば芸妓が下がると、一言以て能く状情を貫けり。野 ■の為に解して曰く、白魚は此地前川の名産なり、此魚初め近海に生じて、春暖に随て川上す。桜咲く頃は宮戸川(浅草の下)を上りて、向島の下に至り、葉桜の時は綾瀬に逼(せま)る。 這地(このち)及山谷堀の芸妓は、花の時を盛りとして花散る後は閑なるに随ひ、柳橋は川開きに近づきて、一年中の一盛時とす。依て向島及堀の芸妓は多く柳橋に仮居して客を迎ふ。是を上手より下るといへり。乃(すなは)ち白魚と交替すること、雁と燕の如し。一時の通言も繁昌の余興なり。又知らずんば有るべからず。

又東京妓情に(明治十六年刊、醉多道士戯著)『地墨水の下流に方(あた)り、神田川の咽喉を占め、目下に二州の長橋を臨めば、盛夏の納涼、晩冬の賞雪、遊客呼で海内無双と称せしも、物変り星移り、一新の後に及て関西の子弟情を解せず、徒に坊間《市街》の無香花を愛し、且つ挙折の求めに急なるより柳橋妓と意思相合はず、為めに本地は冷を来し之を十五六年前に比すれば、先づ桑楡の風色なり』と。又当時の風俗を叙すらく東京の風月場、実に数十を以て算ふ。而して之に甲たるもの縱(たと)ひ桑楡の日と雖ども、柳橋を措て何れの所にか求めん。柳も本地の風俗は、他の綺羅淵叢と趣を異にし、江戸ッ児を待て始めて値あるものなり。故に其粉飾淡白にして脂濃ならず。意気侠にして風致に富む。柳北翁の所謂神田上水を飲む江戸ッ児の気象にして、深川の余風を存する者なり。然ればにや雛妓(おしゃく)の時より客の側に侍り、泰然として噪(さわが)しからず。 又嬌て意を迎ふが如き習ひなく、飽くまで老成の趣きを具せり。而して一幟《いっし・のぼり》を樹るに至りては、争ふて牛後を避け、技を競ひ、才を衒ひ、寸歩も譲らす。頗る負けじ魂に富む。是を以て乎、我意に合はざれば、仮令(たとい)数十金を投ずるも、之が為、性を折て錦帯を解かず。又其意に投すれば《かなえば》、用事を付て遊ぶを厭はず。情と侠を立通して後ち已む《いむ・やめる》の気象と云ふべし。然れども侠に偏するの弊《わるいこと》か、その情夫を択むの目に乏しく、往々鳶の者或は角力又は船子等を愛し、世に謂ふ通人粋客に適せず。 盖(けだ)し鳶の者輩は、淡白にして宵越しの銭を持たず、総じて濃重からざれば、最も其の意気に投ずる故ならん。此の情態を知らずして、関西の子弟等祇園町或は大阪島の内に冶遊する趣を以って、此に臨むが故に常に厭はるヽ所となるなり。嗚呼東京三千の歌妓中、関東の気象を堕さず、昔時江戸の趣きを存する者、唯り柳橋あるのみ。之を東京一の芸妓と云はずして何ぞや。中井桜洲、柳橋を賦する詩あり、曰ふ

 関東覇気漠然終  唯有絃歌存古風

 回首二州橋両岸  人在青楼春色中

と、十七年前の昔なり。又同書に東京平康等級表とて声価を次第すらく、柳橋、新橋を一等の地に置きつ。一新以後田舎漢、江戸ッ児に代りて要路に中り。素の政務の暇、争ひて関東の花を折らんとし、柳橋に邀《きょう・もとめる》遊せしが、哩共《わいども・田舎者?》はベランメイと意気相合はず、殊に柳橋妓は、その左右する所となるを屑とせず、多く肘鉄の八を喰はせたるより鯰公等失望の余り、「恰も連合したるが如く』とありて蘇小を新橋に訪ひきと云へり。端唄の『芸者商売さらり』といへるを替唄にて、かた気商売さらりとやめて、両国辺に住居して、おまへは箱屋で歩行(あるか)んせ、私は芸妓で左褄云々。方今(ただいま)の月旦評《人物評・しなさだめ》は風流才子に譲る。