明治初年に方りて柳橋の事を記すもの、柳北翁の柳橋新誌あり。頗る事情を詳らかにせり。又明治七年刊、萩原乙彦の東京開化繁盛誌あり。之を現在に徴するに《見比べて考える》に、自から異彩あり。左に繁昌誌の一説を抄録せむ。

柳橋新誌二編に、河長梅川盟を橋の南北に争ふといふ。梅川既に衰へて、其亭宅は依然たれども割烹の煙絶て、近時■が家を一貴人、購ふて楽所にせりとぞ、河長(橋北にあり)萬八、亀清柳屋は将に《まさに》衰頽の気を一振するや否、今に猶存せり。柳光亭(橋北)生稲(柳橋新誌に幾稲に作る。是は柳昇亭の苗字なり、世に椀屋幾といふ)大橋の若きは今猶雄を競ふ。有信亭松中庵は奇を以て鳴り止む。柏谷青柳は河の東にあり、深川亭は広小路の南にあり、共に此地に干らねば、本編には省て評せず。巴屋は大代地に在り主人は今の易牙《貿易商?》の由、偖《さて・猪の誤字か?》船宿は各屋柳橋通なる元柳町両側にあり。

松葉屋岩次郎、若竹みち、中村屋なか、上総屋長右衛門、飯村屋もん、吉川平助、伊豆屋庄兵衛、藤本幸次郎、三河屋清三郎、日野屋藤兵衛、通計十軒。

同所に河内屋半次郎、待合茶屋に福田つね、蒲焼に鮒屋次郎吉、亀清、柳屋、大橋並びに■にあり。吉川町附に曲がりて、箱屋に岡崎屋竹蔵、橘屋吉五郎(これは芸妓の箱廻しを出す家なり)あり、菓子屋に茗荷屋松造あり、裏河岸に丸屋さと、相模屋定吉、埼玉屋きせ、信濃屋三之助、三浦屋さたあり。同所に待合茶屋伊勢屋たき、あひ鴨に川半あり。川上稲荷守護人渋屋与八あり。山田きく、升田屋平六は新柳町へ転じ、其升田屋の旧宅にて天麩羅茶漬を開舗す。仄に聞く三谷堀にて高名の老芸妓鯱立(さっちょこだち)の小萬此に在と歟。未た詳らかならされとも乃ち升田屋の料る所なるべし。且椀焼と云ふ柳升亭の生稲も這(この)主人なり。這地に待合茶屋歌沢定吉あり、菓子屋に小川玉斎、蕎麦屋花外庵あり、新柳町は築出の新地にて往時将軍家の御上場(おあがりば)として三方に柵馬行(さくやらい)あり。内に川上稲荷神社あり、『守護人渋屋与八』とあり。芸妓屋に栄屋、割烹に生稲(いくいな)、遊船宿升田屋あり幕府時代には歴代の将軍、隅田川御成の節には、乗船上陸共に、必ず此地よりせられきとなむ。 有徳院御実記附録に、享保二年五月十一日、始めて鷹狩ありし時、両国橋より御船に召され、竪川を過させ給ひ云々、又云隅田川の辺より帰らせ給ふ時、御船両国橋のもとに着きしかば、御供の小人等、舟中の調度ども、岸に運ばんとす。其折しも御舟の障子を開き、たそかれ河辺の景色を御覧じておはしけるに、数奇屋方の者茶弁当を担いで上らむとせしを見給ひ暗くなりしぞ、危ない々々と御声を掛け給ひしを、騒がしき折からなれば傍輩の云ふと思ひ誤りて、心得たりと、云ひすて歩み行に、御障子をはたと、たてさせ給ひしのみにて、何の仰せもなかりしとぞ。又云、葛西のほとりに放鷹し給ひし返るさ御船、例のほとりに着きしかば云々。又云横山町辺り防火の士卒(に組山二長左ヱ門)、火をさくるの士人等東西に走り違ひ、物騒がしき様は大方ならず。警衛の者共も制して兼て見之けるに、両国橋にて御舟より上がらせ給ふと、其のまヽ亘《わたる?》と云へる駿馬にむちうち、群がり立たる衆人の中を一散に乗りぬけ、本城に返らせ給ふ云々。他の将軍にはさるためし無かりしかば、美談として掲げらしならむも、歴代が此地を御上陸場と定められたるは、事実としての証に充つべし。一説に元両国橋の袂に車屋冶兵衛(に組車屋冶兵衛)と云ふ、荷車渡世の者ありき。幕府の時、将軍家の水馬に御成りある毎に、其家を小姓の休憩所に宛て居りしが、家跡は則ち今の岡葡萄酒店のある所にて、明治八年頃九代目迠継ぎ来り、十代目冶兵衛に至りて他に転じ鳶頭に成れりとか。されど御上場が新柳町にして維新前迠は柵馬行結ひしのみかは、川上稲荷の小祠現存せるにても知らるべき也。世に附会(こじつけ)の説を流布するものあり、曰く旧両国橋の位置は元柳河岸、一銭蒸気船の波止場より東両国本所尾上町河岸伊勢平楼の所に架したるものなるが、八代将軍(有徳院)の時、架換の為、今の場所へ仮橋を設け、将軍家之(これ)を渡りて、其の堅牢を激賞したるより、遂に其侭(そのまま)となれるものなりと。此の事有徳院殿御実紀に見へず。町奉行への書上も無し。 享保十三年両国橋流失の際工事中元柳河岸より尾上河岸に仮橋を架したるは別に記す。