尼が橋

総鹿子云、『尼が橋、米沢町より元矢のくらへ渡る橋、薬研堀にかヽる小橋也。正徳年中此所に朝鮮人参座有し迠は人参座の橋と云しが其後近きころ、乞食の尼、此橋詰に居て、往来の人に憐を乞し故、いつとなく世人尼が橋と呼けるとぞ。同書は寛延四年の開板なり。今、薬研堀に架せるは元柳橋一橋のみ。或は明和八年薬研堀埋立の際、棄撤したるには非ざる歟。

 

間部河岸

絵本江戸土産云、『両国より南の方の小川に架すを元柳橋といふ。その川下を間部川岸と唱へ四季ともに月夜の勝景、いと閑静にして意気揚々たるのながめあり。』武江年表云、『寛永元年甲申二月、両国橋と新大橋の間に道を付らる。註に去年の大火事に両国へかヽる人多く死する故なり【年代おかしい・寛永年間にはまだ両国橋がかかっていなかった、寛文か?】』。

以前は大川端に密接して人家或は武家の邸宅ありしと見えたり。武蔵志料云、『矢の庫を引れて、その跡真鍋氏の弟(邸か?)宅と成る故に、今に至りて真鍋河岸の名、残れり。又今は其真鍋氏も宅を移して五庫の別荘となれり、真鍋氏の支流僅に其故地に在るのみ。』間部の邸は今の矢の倉町十三番地にして嘉永の切絵図には松平丹後守下屋敷とあり、即ち大川端なり』。新編江戸志云、元禄の頃は御蔵は(矢の倉)引、間部家屋敷と成し故に今も両国橋より新大橋迠の河岸を間部河岸と云へり、云々』。貞雄云、『矢の御蔵は今、田沼家の屋舗より北の方なり。間部河岸と云しなり、両国橋より新大はしの河岸をいふにはあらず』。元柳橋以南、大川端数丁の間を近年迠間部河岸と唱へたり。