米沢町三丁目と矢の倉町の間、大川端通、薬研堀の落口に架せる橋なり。往時は難波橋と云へり。江戸(ママ)云、『難波橋やげんほりの大川はた。』総鹿子云、『難波橋、米沢町三丁目より大河通り屋舗町へ渡る橋(中略)此橋下より入堀を屋げん堀と云。』難波の称は、大川端にて葦等生ひたるよりの名ならむ歟。新編江戸志云、『難波橋米沢町三丁目又薬研堀大川より入口にも同名の橋有。』とは、前編所載浪花町に架したる小川橋の旧名難波橋に対して斯く記しつる也。新編江戸志云、『旧柳橋と云は薬研堀の(しも)にあり。』府内備考、また此説を咀嚼せずして載せたり。武蔵志料云、『柳橋は柳原の末にあり、世に新柳橋と云へるは僻事なり。是に異説あり。両国の南、薬研堀に架れる橋を元柳橋と云へるに対して云へると思はわろし。此橋は難波橋といふ。此所は古へ両国橋この所にありし故元両国といふ云々。』享保十三年八月、両国橋流失し、寛保二年普請中、また橋板を流され、延享元年五月落成の期迠仮橋を設け、やがて引払いたるに、世人は却って仮橋の地を両国橋の元地の如く思惟し元両国と呼つるは別項に記載せり。按するに両国の元地と称するより、難波橋を元柳橋と強い却って古の柳橋を命するに新の字を冠せしむるの愚を学びとし歟。総鹿子の編者が弁明を要する所以なり。柳橋の名は江戸名所図会にいへる如く、柳原堤の末にあるが故なりと、さもありぬべき説なりと。夫婦柳ありしが故なるべしとの俗説はとらず。現在の橋梁は木橋にして長さ五間、明治廿年一月成と刻しぬ。