両国広小路は江戸時代著名な殷賑地の一つだが民衆娯楽的賑ひを呈すようになったのは両国橋創架以来の事である。両国橋が始めて架けられた年代に就いて二三の説に分かれて居るが『徳川実記』『柳営日次記』等に万治元年七月発令同二年十二月十二日竣工、渡り初めとあるのを信じたい。是は明暦三年大火の罹災に鑑み、府を隅田川以東に拡張する為通行の便を計るのが目的で其の時の位置は今より南方即ち旧時の片葉堀の南に東脚を、西脚は後の米沢町二丁目地先に当って居た。

両国は渡船場時代から交通者を目当てにする大道芸人等も出て幾分賑やかな土地であったと思はれるが橋が出来ると同時に橋詰が火除地として拡がった故、以後の賑ひの勢ひは自然と云へる。最初は『大橋』と云ふ名称で天和元年に流失(焼失?)して以降元禄九年迠の約十五年間少し南方の矢ノ倉に仮橋を造り通行したが此所には橋詰広場が無く天和年代の地理を書いた戸田茂睡の『紫の一本』や其の他元禄頃の地誌、風俗画書類を見ても船遊び以外に賑はったと云ふ記事は見へない。元の位置に再架されたのは元禄九年九月、盛り場両国広小路の歴史は先づそれ以来と云って宜しい。先づ享保四年十月両国橋東西橋詰番助成地(西弐百壱坪余、東弐百五坪拾八余)を仰せ付られ十年九月始めて助成地内に葭簾張りを許可、次いで同十四年六月に水防請負助成地(六百八拾弐坪余)を仰せ付け同十八年七月に右地内にも葭簾張りが許された。両度の許可で賑はふ基礎が出来たが普通町家と違ひ仮小屋故将軍が隅田川筋出遊の場合は忽ち取払ひ清掃しなければならなかった。それは両国橋付近には将軍の揚り場(船着場)が二ヶ所有った為で下の召し場が享保二年上の召し場(此所に川上稲荷が有ったので俗に揚り場の稲荷と云った)が同三年に設けられて居た。

水茶屋(並び茶屋)が盛んになった始まりは享保十八年三月に嵯峨の釈迦の出開帳が両国回向院で行なはれた以来の事で同年五月二十八日将軍吉宗が隅田川で水神祭を催し、以降其の日を川開きとして前々から賑かだった納涼船遊びの慣例が従来は下流の三股(みつまた)(中州辺)を中心として居たが段々上流の両国橋へ逆昇る事になった。其の翌年享保十九年三月行徳で捉へた鯨の頭と尾を八文の木戸銭で東両国の石置場で見せたのが文献上見世物の始まり云ふが実際は最少し前から有ったらうと思ふ。此の様な見世物や水茶屋は営業を朝から夕方迠に限られ川開きの後、納涼期間中は夜も営業を許されて此の制度は露店商人も大道芸人等に就いても同様であった。

延享四年二月に奉行は空地の床見世や架小屋の撤去を命じたが両国広小路と新大橋詰の広場だけは『取払ひに及ばず』と除外された。両国広小路の繁昌を俗に『日に三千両』と云ったのは前記の水茶屋と見世物の上がりが合計千両、納涼船遊びが千両、毎朝の西両国の青物市(是は元禄以後)を千両と数へた物である。川開きに花火が導入されたのは天和年代以後で後に花火は近辺のお茶屋、料理屋、船宿等の客引き策となり又吉原、深川等への地の利を得た柳橋や薬研堀の隆盛をも受け両国の賑ひは一層拍車をかけられた。明和年代頃の盛況は『両国栞』等の風俗書に詳細を尽して居るが其後安永年中に大川の中州新地埋立が完成してからは『中州雀』にも有る様に両国の賑ひは新地に吸収され、一時大いに寂れるに至る。然し中州の繁昌は僅か前後十四年間の事で天明八年に中州が廃止され再び以前の景況を取戻した。『東都歳事記』に叙述された両国広小路の情景は元より再興後の描写であり其の後も大体同じ様な状態で明治初年に及んだが明治五六年にかけ従来無税地だった床見世、葭簾張(よしずッぱ)りの取り扱ひが施行され小屋芝屋は久松町に移って喜昇座(後の明治座)となり坂東村右衛門の芝居は蛎殻町に移り中嶋座に、其の他の見世物大道芸人等は秋葉ッ原、佐竹ッ原、筋違外(すじかいそと)広小路等へ引けて跡地は全く往時の景観を失ふに至った。然し川開きの大花火だけは明治六年以後は六月二十八日となり同四十五年以後は第三土曜日(七月)と異った。