横山町三丁目、米沢町一、二、三丁目、元柳河岸と吉川町、新柳町の間、両国橋西詰の火除地、此辺を広小路と称す。総鹿子云、『吉川町、よこ山町三丁目のつづき、両国橋広小路あり。五十嵐が油見世有、幾世といふ餅屋あり。又云、米沢町両国広小路あり。』明治五、六年頃迠は此所観物(みせもの)、芝屋、辻講釈或は納涼、花火と昼夜の遊興絶間無かりしなり。火除地となりしは、いつの昔にやあらむ。明暦の災後か、将(は)た宝永年間大川端に道路を設けられたる時なるべし。市区改正の設計に依れば、此地五等道路となり、更に浅草橋袂より元柳町、新柳町を神田川に沿ひ、一等道路第二類を開き、両国橋を改築して、本所藤代町二等道路に連接すべしと云へば、著るしき変更を見るべし。 往時は観物(みせもの)、辻講釈、百日芝居と甚だ雑踏の巷なりしも、近年旧態を一掃して、商家櫛比、殷賑の市街とはなりにき。米沢町には五臓圓本舗大木戸口哲、生命(いのち)の親玉横山錦柵を始め売薬商の看板、四方商舗が和洋酒類缶詰並びて勧業場両国館、落語席の立花屋、講釈席の福本、新柳町新柳亭昼夜義太夫を聴かせ、生稲、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町此辺は到所(いたるところ)芸妓街にて、亀清楼、柳光亭も近く、楼船にて遊客は浮かれぬべし。 吉川町には両国餅同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭の天麩羅、松寿司と下戸も上戸も舌鼓せぬ。金花館と云へる勧業場は両国館と相対峙し、隣は大黒屋とて新版物を出す絵草子店。さて浅草橋最寄には消防派出所の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる楊柳数十株点綴《てんてい・ほどよく散らばって調和していること》する間、馬車鉄道は二條の鉄路を敷きて絶間無く往復し、又九段坂、本所緑町通ひの赤馬車は両国橋際に停車して、本所行、或は万世橋行と叫びて客を招ぎ、大川端橋の左右の袂には大橋、吾妻橋行の隅田丸発着して、こヽ三四丁の間、四通八達の衝路として極めて賑かなり。夜間に及べば数多の行商露店を張りて夜市を開く。毎年七月十日より九月十日迠二ヶ月間、広小路の両側、吉川町横山町三丁目、米沢町一、二、三丁目の商家、市松の障子屋根をつけたる絹張の大絵行燈を点ずるの例にて、夕間暮、風は無くとも涼しかるべき両国橋畔、一段の光景を添へたり。昔は此地に並び茶屋とて、数十軒の水茶屋有りし頃、此の並び茶屋の千本格子の上の所へ、表へ向けて二尺五寸、高さ一尺二三寸の狂書の横行燈を毎年川開きより点し始め、国麿輩が画作に意匠を凝らせりとなむ。方今は店頭三尺を離れて、大路に杭を打込み、以て燈篭を植す。数十の燭光、燦爛として花の如し、清親のポンチ画、月耕、年方の筆になれる物多し。両国広小路米沢町、吉川町の間に、四月二十五日より五月四日迠、冑人形、幟の市を立つる事を計画したる者ありて今年之を開きたるが毎歳定例となすの見込ならむ。江戸名所図会云、橋の前後並橋上に、番屋を居て是を守らしむ。又云、陸には観物所せき斗にして、其招牌は風に飄て扁翻たり。両岸の飛楼高閣は大江に臨み、茶亭の床几は水辺に連ね。燈の光は玲瓏として流れに映ず。楼船扁舟、所せくもやいひつれ、一時に水面を覆ひかくして、あたかも陸地に異ならず。絃歌鼓吹は耳に満ち囂(かまびす)しく、実に大江戸の盛事なり。』と。是天保年間の実況たり。紫のゆかり(山岡浚明著)云、『ふた国の橋といふあたりは、常に人おほくあつまりて、にぎはひ、外にことなれは、しりかけてやすらふ、すのこたつ物、きし近くならべて、ゆなとたくはへいとなむさまざな見物(みもの)あるをそのすかた、いかめしうゑかき、戸口に高くかけて、こヽかしこに名のりはやす道のかたはらに、つらなるあき人、小弓いる(射る)には(庭)、あるはいやしきともがらも耳ととむる。さう紙読ときてきかするも多し。』東都歳時記に、大路には仮屋構へ綱戯(つなわたり)撞戯(かるわざ)牽綵(なんきん)《糸操りのこと?》、 傀儡(あやつり)猴扮戯(さるしばい)其余(そのほか)山野の珍禽異邦の奇獣に至る迠種々の観物招牌(みせものかんばん)をかヽげ、嘖吶(ちゃるめら)の声かまびすしく、演史(こうしゃく)、土弓(やうきう)影戯(かげしばい)笑話(おとしばなし)篦頭舗(かみゆひどこ)相工(にんそうみ)術家(うらないしゃ)の床、生菓、石花茱(ところてん)なと物として有らずといふ事なく、橋上の往来は肩摩跟随轟々然として雷の如し』と載せたり。又毎年五月廿八日より八月廿八日まで両国橋の夕涼にて、茶屋、見世物、夜店を開くと同書に云へり。又武江年表に、一時評判を得たる観せ物二つ三つ載せたれば左に之を抄録せむ。文政二己卯年の條に、両国橋西詰に篭細工にて大なる酒顛童子の形を造り見世物とす(江戸亀井町笊(ざる)篭師の細工なり、始天竺の僧、うたヽね枕と題して涅槃の釈迦如来を作りしが、嵯峨の釈尊開帳の折なればとて酒顛童子に改めしなり)。向両国にてもギヤマンの燈篭並に蘭船の造り物杯も見せたり。天保十二年辛丑年九月、両国広小路へ紀州若山の生れにて歯力鬼右ヱ門と云ふ者見世物に出る。磁器の茶碗を噛割り、或は鐘の竜頭を口にくはえ、其余重き物をくわえて自在に扱ふ。弘化元年甲辰年春より夏に至り、両国広小路に大なる仮屋を構へ駒廻し竹沢藤治(下谷の住)こまに手妻の曲とゼンマイ機械(からくり)を交へて見世物とす。 見物山の如し。狂歌江都名所図会(天明老人内匠撰)此橋東西の広小路に芝居、軽業、見世物、吹矢、揚弓場、髪結並び床、喰物店、水茶屋数多あり。其他淫猥なる観世物ありて、風紀を紊乱せしと。かく雑踏を極めし地なりしも、将軍御成の節には小屋掛悉皆取払を命ぜられしとなむ。維新後に及びては旧態を一新し、又昔日の観なし、明治六年無税の地にある床店、葭簀張、取除けの布令あり。事物駸々として発達し、両国橋畔は商家鱗次、殷賑たる市街となり。積年の汚点を一朝にして雪(そそ)ぎぬ。続江戸砂子云、『幾代餅両国橋西の詰、小松屋喜兵ヱ餅を一焼きざっと焼きて餡を点ず風味美なり。元禄十七の年、始めて之を製す。今諸所に模して江都の名物となれり』。 近代世事談云、『幾代餅、根元は両国橋西詰にあり、前は鉄砲町に住して、すこしき餅を商ふ。此の者の妹にかもんと云あり、この女の夫は蕨駅の某にて大百姓なり、渠と示し元禄十七年にはじめて廓をかまふ。其餅、味美にして栄ふ。今所々に此名あるは之に准ふもの也。何故に幾世餅と名付たりや。』維新前後、看板見へずなり今はふじ屋とて旅人宿に転業したりとか。吉川町に五十嵐兵庫とて油見世在り著名の老舗なり。店頭に高さ七尺、横四尺許の金文字の置き看板を据へたるが中央に冠髪香、左方に五十嵐、右方に江戸一番両国橋と認めありしとか。花火にて有名なる玉屋も所柄吉川町に住みき(花火は天文二年輸入)。総鹿子云、『夏より秋の半まで両国橋と新大橋の間に船を泛<(うかべ)、暗に乗じて煙火戯をなすに、萬華忽ちに開、須臾にして春苑を見る。実に一時の奇景なり。此家其術に妙を得たり。今も煙火を打揚ぐる時は萬衆一斉に玉屋と叫ぶ。其の名を博したるを知るべし。東都歳時記、『五月廿八日今夜より花火をともす。逐夜貴賎群集す。漸日も暮行けば、茶店の檐(ひさし)の灯数千歩に映じて、暗(やみ)無き国の心地し、楼船の桃灯は波上にきらめきて、金龍影を翻し絃歌一時に涌て、行雲不動忽(たちまち)疾雷の■に驚きて、頭を挙れば煙火空中に煥発し、如雲如霞、如月如星、鱗の翔るが如く、鳳凰の舞ふが如く千状萬態、神まどひ、魂うばはる。凡此に遊ぶ人、貴となく賎となく、一擲(いってき)千金惜しまざるも宜(むべ)なり、実に宇宙第一の壮観とも謂つべし』。狂歌江都名所図会に『五月廿八日は川開きと云ふて夜店始る。川には花火、陰芝居、うろうろ船ありて納涼専らにして、いと賑わしき所なり』。両国の煙火戯は川開きと称しつ、方今に及ぶも盛に行はれぬ。歳事記に五月廿八日より花火をともす逐夜貴賎群集とありて、八月廿八日納涼の時期と共に終るかの如く記しぬ。繁昌記には『至七月下旬而止焉』と載せたり。増補江戸年中行事には『五月廿八日より両国橋納涼花火ともし初、茶屋見世物都て七月下旬まで夜店出す』とあり。思ふに三箇月間の時期ならむも、陰暦八月下旬に及べば、秋冷加はるを以て、群集の盛りは七月下旬までとの意には非さる歟。加え、煙火(はなび)は連夜打揚げしものヽ如くなり。近年は八月第一土曜を以て打揚げの時期となせり。当日雨天ならむには、次週の土曜日と順延しつ、只一夜の遊興なれば、其の雑踏或は昔日に倍するものあらむ。去三十年八月十夜の川開に両国橋欄干破壊して、溺死人ありたれば爾来其筋にては、橋上に佇立して煙火戯の見物を許さず、警戒を厳にせり。東都歳事記、五月廿八日の条に、『両国橋の夕涼、今日より始り、八月廿八日に終る云々。註に此地は四時蕃昌なるが中にも納涼の頃の賑はしさは、余国に比(ひす)べき方はあらじ、東西の岸には箔子園の茶店、櫛の歯の如く比び、客を倡ふ手弱女は真白に粧ふ富士額、雪の膚淘締《?》に透りて、涼しさをそふるもいとをかしく云々』。続江戸砂子云、『納涼、両国橋、東西の両岸に万客の床は、目前の琴台となし、龍膏の燈を点じて昼中の如し。美酒美肴、あるひは甜瓜桃李は山をなせり。諷々なる川風、煎沙の苦を忘る。寛文見聞記云、仲町(深川)を初め其外の娼婦、客の迎ひとて、屋根船に乗り、船宿迠行事あり。又送りとて客と共に舟に乗行あり。此舟春夏の頃は両国川辺りに、納涼花火等に遊ぶ事有、三味線芸者を伴ひし舟ともに、橋間につなぎて猥がはしき事も有しより、屋根船の、すだれは雨雪の時、又は波立たる時の外は巻上おくべし、橋間につなぎ置べからずと此年(天保十三年)四月に令ありける』。納涼に托して、かかる醜業も行はれつるならむ。