旧幕府の調馬場にして馬喰町三丁目北裏通りにありし。江戸切絵図には初音の馬場と記せり(初音稲荷社其の傍にありしに因るか、今は深川に移れり)又楠の馬場とも称したりといふ。明治六年に至り廃止せり。武江図説に云。此の馬場を追廻し馬場と云ふ、明暦火災後より常の馬場となる慶長中関東御陣の時、御勢揃ひありし所といふ。元、高木源兵ヱ、富田半七と云ふ公儀馬工郎 (ばくろう)此の馬場を預かりし也。今馬口労(ばくろう)頭高木源兵ヱ(此所(このところ)名主役兼帯)山本侍左ヱ門(本石町名主兼帯)此の両人毎年武州多摩郡府中六社祭礼、馬市の神事に罷出(まかりいず)る事恒例なり。御馬請取社地へ参り御寄附の馬場乗廻し社頭大権現宮へ参詣、其の御馬は毎年両人拝領今以相勤右府中六社の縁起に委し。