関東郡代屋敷は馬喰町四丁目北に在りて柳原に接したり。昔此の辺にも仏寺ありしが明暦の火災後、他に移し此の官宅を設置せり。関東郡代を廃せし後は馬喰町御用屋敷と称す。

俗間には猶(な)ほ郡代屋敷と唱へたりき。明治初年に至り、諸藩出張所となりしが、調馬場の廃撤と共に町家に変せり。関東郡代の沿革を考ふるに天正十八年朔。徳川家康公始て伊奈忠次(備前守)をして関東八国の郡代となし、其の貢税を掌らしむるを以て起原とす。(この)際市川、松戸、房州の三関を監理せしめたり)元和四年更に駿河、遠江(とおとおみ)参河(みかわ)三国の貢税を兼掌せしむ。

享保十八年十二月二十八日勘定吟味役の上座に班す。寛政四年三月九日伊奈忠尊(右近将監)罪あり。其の職を奪ひ采地を没収す。凡そ関東郡代は伊奈氏を以って之に充て歴世更革(こうか)する事なし。是に至りて始て之を廃して閲へ十日、勘定奉行久世広氏(ひろうじ)(丹後守)に兼任を命じ、馬喰町の官舎に移転し諸務を管理せしむ。四月四日郡代支配代官を隷属す。文化三年三月三日郡代廃止す。