矢ノ倉辺に往時、薬研堀と称する入り堀の地なり。現に米沢町三丁目と矢ノ倉町の間に当時の俤をとヾむれど古への堀留は横山町一丁目に達したりとなむ。明和年間之を埋築して爾来薬研堀埋立地と呼称せり。又近傍、村越豊之助外藩士の邸宅ありて医師多く居住したれば俚俗、医者町と、明治五年合併して薬研堀町と改む。江戸砂子(享保十八年版)云。『薬研堀やのくらの舟入堀なり』総鹿子(寛延四年版)云。『薬研堀両国橋の南、大河より米沢町へ入る堀也。元禄年中、矢の御蔵とて此辺は御蔵ありしが云々』府内備孝云。『薬研堀両国橋の南、元矢の倉の入堀なり、昔は横山町辺迠入りて幅も殊に広く御米蔵の船入川も此堀に続きしと云、今の如く狭められしは元禄年中御蔵を築地に移されし後なるべし」武江年表、明和八年辛卯六月の條に「薬研堀と云へるは米沢町一、二、三丁目の地先に在る入堀なりしが今年六月より十一月迠に埋立、其跡町家と成、薬研堀埋立地と号す』嘉永の切絵図を見るに十九、二十番地の一区画なり。