往昔此辺一帯は谷野(低所(ひくいところ))と云はれ正保二年徳川幕府の米蔵が建設され是を谷野御蔵亦は矢ノ蔵と呼ばれた(江戸誌料)。その時御蔵の守護神(まもりがみ)として谷野倉稲荷と共に屋敷地に有った富福稲荷(後に通り塩町の鎮守とし祀らる)及び新左衛門稲荷の三社を矢ノ蔵の鎮守として大川端柳の下に奉斎したと伝ふ(徳川時代の神社史に依る)。元禄十一年米蔵が築地に移転し跡地は北部を町家に南部(現三社稲荷の辺り)は武家地として幕末に至った(御府内沿革図書に依る)三社稲荷社は柳沢出羽守より稲葉家、水野家と受継がれ明治六年町名制定にあたり此辺を矢ノ倉町と称す(日本橋区史に依る)。昭和四十六年四月一日より住居表示に関する法律第三条第一項及び第二項の規定に基づき東京都中央区東日本橋一丁目と云ふ街区符号になった。以上は初音森神社(江戸七森稲荷の一)宮司田部伊勢春氏記述を基に古川三右衛門之を誌す。