村松町

名主村松源六の開きたる町なるに依り、遂に町名となると。武江年表に云。『元禄六年温清軒の江戸絵図に村松町は筋違御門内(御門の際にて連雀町の旧地の側)にありて肴店と討せり(享保の図にも尚この所にあり)』宝暦の江戸絵図に筋違の門内にありて、当所にも村松町とあるは如何。されど村松町は筋違門より移転し来れるには非る。明治五年浜町の土地をも合併せり。

 

矢野倉町

正保、元禄の間(正保一六四四年、元禄一六八八年)、矢之倉といへる米倉のありし地なり。明治五年、松平丹波守の下屋敷を合併して矢之倉と称す。薬研堀北の入堀なり。昔矢之倉ありし頃、其構(そのまま)堀なりしと。其の落口、大川端際に元柳橋架せり、同橋の南、大川の沿岸に東京市道路修繕用砂利置場、共同物揚場及羽田間通り穴守汽船発着所あり。薬研堀に面する片側は雑踏の巷なるも、大川端及浜町最寄りは未だ俗了せず。同町は商店、邸宅相半ばせり。一番地に両国教会仮会堂あり。二番地に上総成田山新勝寺出張所(でばりしょ)不動堂あり。矢之倉府内備孝云、『正保江戸絵図、浜町山伏井戸の辺に御蔵とあり。是世に称せる矢野御蔵なり』新編江戸志云、『矢の御庫跡、矢の御蔵は天和の江戸絵図にも見えたり。今の山伏の井戸の道より富沢町の北、川を堺として北は両国広小路、元柳ばし迠、横山町、同朋町迠一円の御蔵也。元禄の頃は御蔵は引(ひけ)間部家(まなべけ)屋敷と成し故に今も両国橋より新大橋迠の河岸を間部河岸(まなべがし)と云へり。それも異りて四五軒の屋敷となれり。貞雄云、『矢の御蔵は今田沼家の屋敷より北の方なり。間部河岸と云しなり。両国橋より新大橋迠の河岸を云ふには非らず』事蹟合孝云、『元禄十一戊寅年九月六日山下町より出火し三谷辺迠類焼したり。是東叡山勅額御到着の日にして彼(かの)御額通過る跡より出火したり。此六日火事の後御米蔵築地本願寺の東南岸海端に移され(中略)彼(かの)築地に移されたる御米蔵汐風にて米蒸(ふ)け候由也。享保始の頃(八代吉宗の頃)、浅草御蔵ヘ彼米蔵一所にさせられ候由也。武江年表にも元禄十二年己卯、両国横山町続、矢の御蔵去年災後今年二月西門跡の東南の海辺へ移されしが汐風にて御米蒸けし故、享保の始頃浅草御蔵へ一所に移されしと云ふ。註に『矢の御蔵の跡は町屋、広小路となり大かたは米沢町と成と云(いへ)り。矢の御蔵の地は寛永の図には寺町とあり承応(四代家綱一六五二年頃)の図には御蔵やしきと記(しるせ)り。則(すなはち)矢の御蔵なるべし。延宝(九代家重一七四五年頃)の図にはたしかに矢の御蔵と記せり。其御構四丁程も有しとなり』矢の倉としも云へば武器等の倉庫の如く聞ゆるも全く米庫なりしよな。今も米沢町とて町名に残りぬ。矢ノ倉の呼名に就ては二説あり。江戸砂子云、『八の蔵屋敷跡、門跡の上地に大名八人の蔵屋敷ありし故、八のくらやしきと云、今はよこ山町南側、よね沢町、其外武士やしきと成』。総鹿子云、『元禄年中、矢ノ御蔵とて此の辺は御蔵ありしが後築地ヘ移され、其跡今は武士屋敷、町屋となり町は米沢町と云、三町あり。他の書に御蔵八つ有りし故屋のくらと云は誤りなるべし。古老の云しは、此辺然らば矢野と云し所也と。夫故(それゆえ)矢ノ御蔵と云し成べし、今此所を元矢野くらと云。