両国と云ふ名称は宝暦三年の郡代屋敷の文書にあるのが最古で西側が元である。

両国と云ふ名称は端唄、小唄、浄瑠璃、舞踊おどり、歌舞伎、講釈(こうしゃく)、落語(はなし)

にもしばしば出て参りますし、岡本綺堂の半七捕物帳等にも度々其の名が見へ、吉川町の牛鍋屋『いろは第八支店』の倅、木村荘八画伯も『両国界隈』と云ふ本を発行だされたり絵画、錦絵等などにも残されて江戸随一の有名な地名で有り、巾の利いた土地でありました。

 

氏神神田明神の神与みこし蔵の鍵を預かる宮鍵講は両国十ヶで組織されて居たので肩書きや提灯の裏には必ず『両国十ヶ町』としてあり、宮鍵講の人を『十ヶ町まちの連中』等と申しました。

大正十二年関東大震火災の後、昭和の始めに復興局に依って区画整理が行はれ其の時、危うく両国と云ふ町名が本所区へ持って行かれる所(復興局では両国駅、両国国技館、回向院等があると云ふ理由)を昔から向ふ両国、義士伝にも本所松坂町等と云ふのに対し西側は町名冠称(あたまな)のとして使はれて来た事を立証し、若松町風月堂米津松造氏始め町会役員の努力で八ヶ町名は無くなったが冠称の両国は残す事が出来ました。

 

此の米津さんは現在の両国橋開橋式渡り初めの時も日本橋側から渡って式場を国技館(現日大講堂)にすると云ふのを皇居へ向かって渡るのが正しい事、天皇陛下の御臨幸の有った千代田小学校(久松中学校)を式場にする事等を主張して実行されました。

此の様に由緒と伝統の有る両国と云ふ名称も今回の東京都地番改正に依って四月一日より日本橋から消へる事になりましたが十五代両国に住み両国に生まれ、両国に育ち、両国のお世話になり、両国を愛し、やがて両国で終わる私が偶々

(たまたま)神田東陽堂発行明治三十年代の風俗画報日本橋区之部を見る機会を得ましたので其の一部両国界隈を写して後に伝へ度いと思ひ拙ない筆を取りました。

其の他にも参考になる図書が有りましたら逐次書き足して後日何かのお役にたてばと思って居ります。

昭和四十六年四月記 

昔は米沢町三丁目であった薬研堀町二十一番地に生まれ

区画整理に依って矢ノ倉町に住む十五世鳶頭つち三事、

古川三右衛門書六十七才

風俗画報新撰東京名所図会

明治三十三年四月二十八日発行神田東陽堂

明治三十年十二月三十一日調査の日本橋区は総面積

三百0一町四反にして戸数二萬四千二百三十七戸

人口十三萬七千八百十二人なり。