薬研堀廿三番地に在り。境内八十九坪余、外に二十一坪の借地あり。縁起略云。『尊像は紀伊国根来山大伝法院開山興教大師四十三歳の御時の御作にして本邦稀有の霊佛なり。天正十三年豊公攻伐の際、釈大印と(いふ)僧あり。今此不動尊の尊像を葛籠(つづら)の中に納めて自ら負担し、関東に避遁す。東照神君入国の前に当りて今の薬研堀に来り草庵を結びて之を安置し奉る。其の払暁、尊像の夢告(ゆめつげ)に依て遂に此所を安置の所と定め、爾来諸人に法益を施せしに霊験日に新にして、来詣の者利益を蒙らざるはなし。遂に遠近群をなして、参拝絶へざるに至る。世に之を草分の霊佛、葛籠の不動と称し奉るは此に由ってなん云々』江戸砂子云。『不動尊やげん堀ほりとまりにあり庵主明王院霊験ありとて近年ことに群集す』埋立前の薬研堀なれば方今とは(いささ)か所在地は異れるなるべし。又近年ことに群集すと云へば其頃より流行り初めし()』総鹿子云。『此所を元矢野(もとやの)くらと云。明王院とて霊験の不動尊あり、廿八日参詣群をなす。又云五月廿八日の條に薬研堀不動尊参詣群集、また月並参詣の寺社と題し、廿八日不動(まいり)、目黒、目白、やげん堀」と見えたり。江戸名所図会にも薬研堀不動堂の図あり。天保年中、水野越前守閣老たりし頃、市街神社仏閣を置かるヽを禁ぜられ、本所弥勒寺内へ移せしが多年有縁の地なるを以って、維新後再び仏殿を造営して当所に復せりと。本尊不動明王は竹葛籠の中に納む秘仏と称して、平月は開扉せず、毎年一月元旦、二日、三日の三ヶ日開帳して善男善女に参拝せしむ。毎月廿八日の縁日には門前賑はへり。境内に大師堂あり、府内弘法大師八十八ヶ所の一にして第二十三番たり。阿州海部郡日和佐村医王山無量寿院薬王寺の写にて市ヶ谷川田久保薬王寺に安置しありを明治十八年、之を迎へて不動堂の傍に移せり。