大正二年十月廿四日発行神田区亀住町 成光館 江戸研究会 神田区元佐久間町 河野源
両国の面影 山田春塘
昔全盛時代の広小路は楽天地であった。芝居、観世物、寄席、揚弓店、水茶屋等の遊び場所は櫛比《隙間無く並んで》して居て、夫に飲食店、小商人、煮売店、行商人、香具師、野天芸人の類で、道路を除く他は殆んど空地が無かった。東両国とは本所側の称で俗に向ふ両国と称し、西両国は単に両国と云って居たが東両国は西より規模は狭い。併し引ッ張りの観世物は同所に限られ、西両国は高小屋物即ち軽業師、曲独楽の様な種類が多かった。其の高小屋物と芝居はいずれも菰張でオデヽコ又は百日芝居と云った。元来広小路は居住を許さず、茶店と云ふ名義の仮設小屋で表面は水人足との書上であったから同所へ居住する者は不時の出水の場合は水防夫となって両国橋を保護せねばならぬ。此の役柄に免じ平常は黙許して置くのだ。なれど幕府の川お成りには悉皆取払い純然たる広小路となるのである。垢離場の名は当時は盆山と云って暑中を利用し各職工が大山阿不夫神社へ参詣したものだ。其の初登山の者は同所に於て水垢離を取り夫から大山詣でに出掛けたので垢離場という名称が起り同所付近を俗に垢離場と云った。垢離場の芝居、故市川照蔵の実父大辰と云ふ大道具師の持で市川高十郎、助高屋金五郎、尾上いろは、と云ふ連中で先代の寿美屋の如きも佳根三郎と云って同芝居へ出勤して居たのみならず小屋主が大道具の事とて廻り舞台を擬したり、せり出し道具等折節遣った。之も本式にやったら猿若町からカスが来るので千代萩の床下等は欄干へ黒幕を張ってせり出した様に見せ、楼門の五右衛門は後見に毛氈を囲わせ中腰になってせり揚る様に見せた。垢離場の寄席、其の席名は判然しないが俗に垢離場の寄席と云った。当時の昼席は桂文治で夜席に新田の宮染一座で女役者の故市川鯉昇は小染と云って非常な人気であった。坊主の講釈場、単に坊主と云って居たが同席は当時名人と称された天一坊伯山と石川一口と隔番にかかっていた。観世物の体裁、時々に依って種類は異なるが、先づ定見世とも称すべきはヤレツケ、サネナガ、鳥娘、蛇使ひ、阿蘭陀娘、目鏡の類で其の木戸銭を僅かに小銭の八文と云ふのだから、ヤレツケ、ソレツケ上見て下見てたったの八文と云ふ囃子言葉が起った。
目鏡の他は孰れも如何はしい女の観世物で花魁の様な後姿を看板にして居た。名物の飲食店、坊主軍鶏、軍鶏文、湊屋、豊田屋、芋金等であった。此五軒の中で軍鶏文のみが中絶で他は営業を継続して居る。当時の豊田屋は夏季が栗餅の曲取り、冬季は湊屋と同じく獣肉鍋を鬻ぎ、牡丹に紅葉の障子を掲げて居た。坊主軍鶏は申す迠も無く東両国の名物、今日でも名声喧しいのである。芋金とは甘藷をふかして売り俗に大ふかしと云って名物で又米沢町に蒲鉾屋を出して居る。夜鷹番屋の事、駒止橋の際に草鞋を売って居た番屋が有ったが妙な習慣で本所の吉田町から稼ぎに来る辻君即ち夜鷹連は此番屋の空地に集合して各自にお化粧して稼ぎに出掛ける。乃で夜鷹番屋と異名を取ったとやら。坊主の講釈場の近くに一銭床が数軒あった。
西両国の光景、勤番の田舎武士や江戸見物の三太郎《ばか》婆は其の繁昌に驚いたに違ひないが同所の賑ひは先ず今日であらば正午時分からで朝の内は広小路の往還へ野菜市が開市となり此市が退てから芝居や寄席が始まったのである。其の広小路で生活して居る者を掲げて見やう。興行師の種類は東両国と違って引張りの観世物は無く、多く高小屋物であった。村右衛門の芝居、坂東右ヱ門と云ふ坂東役者が歌舞伎より破門され同芝居の座頭となった。此の村右衛門芝居が維新後中島座と改り焼失後廃座となった。三人兄弟の芝居は元来飴売りの踊りから成功した富田角蔵、仝福之助、仝金太郎の兄弟の芝居が今日の明治座である。矢場辰と云ふ矢場が小屋主で中村為吉、仝鶴吉等と云ふ女役者の芝居があった。女芝居の隣りに高小屋の定小屋があり有名な早竹虎吉の軽業、竹沢藤治の曲独楽、大評判であった象等も興行した。山二の色物席は『に組』の鳶頭長左衛門の持席で山二亭と云って名人の柳枝と柳桜になった柳橋が出席し円朝と競争をして居た。落語家林家正蔵の寄席は例の円朝が売出し当時に根拠として牡丹燈篭や眞景累ケ淵と云ふ凄い道具噺や人情噺を演じ何時も喝采であった。市区改正で両国橋が変更しない前迠あった新柳亭が義太夫の立花屋の跡で依然継続して居た。土場芸人とは開き木戸で一齣毎に聴衆より木戸銭を徴収したもの、野天芸人は路傍で伎芸を演じ見物の投銭を乞たものである。土場芸人では繁丸の浪花節、当時はチョンガレと云って元気な坊主頭で夏季は赤裸で鉢巻をして、語り物は宮本左門之助と極って居た。繁丸の跡が故人になった吉川辰丸である。新内語りの鶴賀語鶴は『に組』の与三と云ふ消防夫の女房であったが非常に評判を得て後に王子の扇屋を譲り受け料理屋を開業した。女義太夫の定席は此勝で聴衆は過半勤番者、今日のドウスル連の態度で定連は極って居た。龍山と云ふ辻講釈師は荒木又右ヱ門と柳生の二蓋笠を何時も得意で読んだ。野天芸人は米沢町一丁目と吉川町の間で煮売店や香具師、大道商人の中へ挿まって芸を演じて居た。糠兼と云ふ男は二六時中大道講釈で佐野鹿十郎一代記のみを読んで居た。此他阿呆舵羅経、豆蔵等も居たが著名で無いから省く。香具師の商ひは山下の長太郎玉、早継の粉、鼠取、武鑑売、五臓図、薄荷売、読売等で枚挙するに遑非らずだが重なる者を挙げると刷毛書の藤、古毛氈の上で唐紙ヘ刷毛で書画を揮毫し、籤で売るのだが画様は恵比寿、大黒、松竹梅の文字を絵に直した物、新粉屋の藤は蛤の貝の中へ種々の新粉細工をして之も籤で客に売ったが得意とする所は男女の隠す可き所であった。半公と云ふ香具師は山雀に曲芸をさせ当物をやり一種のドツコイドツコイに過ぎぬが此芸は半公が元祖ださうだ。ドツコイドツコイとは真鋳籤、ブン廻し等で表面菓子を賭けた詐欺《いかさま》博打が沢山あった。不正な営業は警察の取締等無い時節だから不正の所為を公にした無頼漢が多く之を並べると、やらずの水出しは明礬汁で文字を書き、乾かし之を水へ浸し文字を当るのだが無論客に儲を与へぬので「やらず」と称し掛おとしたら懐中物を共謀して掠奪る殆ど白昼の追剥である。御霊山御霊場は烏丸枇杷葉湯と仝じ暑気払い薬で一杯僅か二文であったが田舎者でも捉へると加減薬だと云って定斉等を混ぜ、一服一匁二匁と云ふ法外な対価を脅迫した。大道の天道干は俗に銀の煙管と称し鍍金を本銀だと言葉巧みに田舎者に売付ける。大道易者は筮竹を襟に挿し、手に天眼鏡を握り通行の田舎者を捉まへて出鱈目の易判断をする。彼等は当時両国のバチルス《ばい菌のような意か》であったに違ひ無い。名物並び茶屋は水茶屋が並んで居たからで位置は両国橋の沿岸で葭簀張りの掛茶屋、当時十九軒あったが東屋、立花、宇田川、武蔵屋等が其冠たるもので武蔵屋は業を転じ明治座の座附茶屋になった。並び茶屋には有名な美婦が居て納涼客で生活費を収穫して冬は霜枯であったが過半は旦那取りで高等淫売の様な傾向であった。髪結床は各所に散在し村右ヱ門芝居前にも米沢町の自身番際にもあったが並び床の本場は寄席林屋の路次で両側へ床を並べて十数軒あったから此名ありだが髪結銭は十六文宛であった。夫に並び床は一銭職と云はれたが橋番人足を兼て居たから同所では巾利の側であった。揚弓店は三人兄弟の芝居の裏手、自身番は米沢町一、二、三丁目にあったが俗に中矢場と云って浪花節と三人兄弟の新道にあった。両国の矢場は浅草公園式の様に猥らで無く揚弓の競技等があって矢場遊びには通人も立交って居た。自身番とは私設の町番所で町内の入口にあり町役人の詰所で出来事は此所で取扱ふのだ。両国の如き盛り場は事故が多かったから自身番も他所より繁忙であった。床店は板割屋根で将軍家のお成りには否でも取払はれるのである。営業種類は居酒屋、水菓子屋、大蒲焼、黒焼屋、足力、小間物屋、煙草入屋等で足力と云ふのは揉療治の一種で患部を足で踏んで療治する。目下三遊派の色物立花家は同所の小間物屋から転業したのだ。野天商人は多く米沢町一、二丁目の自身番より浅草橋広小路寄りに散在して居た。其の種類はスイトン屋、螺栄の壷焼、海鰻、襟、卯の花鮨、鯡の蒲焼、焼鳥、鰻の頭屋、鮪の血合、鰯の天麩羅、四文屋白玉売、石花菜の曲突き、西瓜の截売等であった。此中に依然今日迠継続して居る物もあらうが痕跡を絶ちし物尠からず。此の価格は折助や仲間が相手故一品四文と極まって居た様だ。東西の広小路は昼は以上の通りで興行師や諸商人で雑然たるものだが並び茶屋の行燈へ火を点す頃になると興行物は打出しの太鼓忙しく出店の野天商人も荷を片寄て葭簀囲をして各々家路へ急ぐ故、広小路が光景を一変する。されば売物や野天芸人迠種類が異なって来る。蝙蝠と同様に日没より現れるのが麥湯と甘酒屋で、さしもに広小路も其床几で狭隘を極め、又行商には恋の辻占(*)、深川名物甘いや花林糖、豆や枝豆の類であった。
(*)辻占の売声「淡路島通ふ千鳥恋の辻占」
それから両国の夕涼みと云って紫と誇る筑波山が紺で一刷毛引た様にドンヨリとなる夕暮から橋上は涼客に満され往来は肩摩轂撃《往来の雑踏すること》と云ふ光景は其雑踏筆紙に尽せぬ。水上の涼船と来たら八島の船戦を生世話《写実的演出》に砕いた様に感じられ河水の見へぬ迠船舶が輻湊《方々から集まること》して居た。陸上と違って船であるから舳先へ行燈等を点て居たが船商人は俗にウロウロ船と称し、西瓜の截売、梨子の皮剥き、本山真桑瓜が重なる物であった。船芸人と云ったら陰芝居、新内節、義太夫、写絵、操人形、八人芸《ひとりで幾人もの声色を演じる芸》等で此等芸人は古屋根船を借て両国橋の上、下流を流して居た。旧派の川開きは例年五月廿八日の規定で当日より涼船が許されたが船で埋ると云ふ橋間も中央二間の所は御成間と称し御座舟船の通場所だから涼船を繋ふのを禁じお船手係は之を厳重に取締って居た。夫に当時の規則として屋根船の二挺櫓は武家方のみに許され町人は黄金を山に積んでも出来なかった。封建時代の習慣として獣肉は穢れだと云って忌たもので東両国の獣肉屋前に来ると諸侯方は乗物は陸尺《駕籠かき人足》が差上げて疾足で通り抜けたのである。西両国の青物市場は往来へ葭簀を立てる所から旗本の折助共が通路の妨害だと云って酒代を強請ったものだ。橋番所は東西にあり東両国は本所方役人と称し突棒、刺又等を飾り厳めしかったが平常は九兵衛、佐吉と云ふ白眼の利かない番人が詰て居た。興行物の木戸銭は百日芝居が十六文、中銭が十六文、即ち三十二文を要し色物寄席が五十四文である。